2020年11月12日木曜日

ポッキー&プリッツ

 昨日ポッキー&プリッツの日だった。

もう11月だよって気がつく。

Twitterばかり行っててこちらの投稿は停滞前線が覆っている。

なにか新しい事があるわけでもなく、大きな何かがあるわけでもない。

例年より寒さが際立っているような気がするだけ。

人の活動制限が温暖化に多少影響しているのかな?


2020年9月28日月曜日

ヒーローはいるの?

Amazon primeで「THE BOYS」というTVドラマを見た。
アメコミのヒーローのような「超人」が実は裏の顔があると言った内容だ。
CMで見たダイジェストで興味を持ち見てみたのだが、予想以上に面白い。
いや、面白いと言うのはもしかしたら適切な表現とは言えないかもしれない。
ヒーローと言う概念をよりリアルに現代社会に落とし込んだ問題作である。

人類を救うヒーローの収入源は?
何故ヒーローであり続けるのか?
欲望と脅威の狭間で人々はヒーローを求め拒絶する。
ヒーローも同様に求め拒絶するのだ。

真実に辿り着く度に打ち砕かれ、新たな展開が待ち受ける。
良くできている作品だと思う。
シリーズ2まであるがまだ終わりではない。
心の闇の底辺を更に深く掘り下げる展開に目が離せない。

変わってしまった

 随分ここに来ていないうちにフォーマットが変更されていた。

前のに慣れていたからなんだか違和感が半端ない。

また慣れるのかな。



2020年8月17日月曜日

もらい泣き

悲しくて涙を流す事が減った分、ちょっとした感動ストーリーで泣けてくるようになった。

それも話の途中でこの後の展開が読めてしまって先回りしてしまうのだから、周りからすれば「?」となるに違いない。
それでも泣けてくる。
一人でいれば確実に泣いている。

夏に風物詩のような物語を見ても、
動物の親子を見ても、
何度も見た映画でも、
泣けてくる。

自分の事では泣けない。
だからだろうか?

2020年8月15日土曜日

お盆ですが

日本の夏。
8月15日はお盆。
ご先祖様をお迎えして供養する時期ではあるが・・・。

どこに行くのも少し気が引ける。
こんな夏になるとは思わなかった。
でも感染症にかからず過ごせている分良かったか。

Twitterを始めた分外との接点がある気がする。
相変わらず冗談めいている自分があるだけだが。

明日から仕事だ。
頑張ろう。

2020年8月1日土曜日

8月

誰も予想していなかった夏が来た
いつもならこうだったという当たり前の日々はない

むしろもう8月になったと感じるぐらい
いろんなことが違って見える

明日がどうなるとかよりも先を見なくては
そういう覚悟の夏である

2020年7月15日水曜日

2020年7月7日火曜日

繋がり繋がる

Twitterを始めて約半年。
自分の居場所をやっと見つけた。
リアルな世界にはない独特な領域だけれど、自分なりの立ち位置を確保している。
仲良くしてくれる人も出来た。有り難い。

お互い顔も知らない間柄だけど信頼関係はあると思う。
そういう積み重ねが必要だし大切だから。

笑えるような文章を沢山綴るけど、たまには真面目な顔も見せる。
真剣に言葉を選ぶ。
文字制限の良さは無駄に言葉を流さないこと。
留まるほど心に響くような事はあまり言えないけど。
そういう時もあっていいらしい。

ブログを捨てた訳じゃない。
ここも大切な自分の一部。
変わらない場所。

2020年6月22日月曜日

明日という今日

限られた時間。
予想の先にある今日はまだ明日でしかない。
どう過ごすか、どう生きるかは今の続きなのだけれど、思い描いた通りにはならない矛盾で溢れている。

どんなに願っても、どんなに積み重ねても、予想外の展開は訪れる。

だから今を生きよう。
消えていく記憶に惑わされないぐらい。
何も出来なかったと悔やまぬように。

2020年6月9日火曜日

非日常が日常になりつつある脅威

冬場にマスクをするのはインフルエンザ感染予防のはずだった。
今年ももう6月。そんな時期は過ぎているのにマスクが手放せない。
新しい感染症に振り回されて何ヵ月経ったのだろう。

緊急事態宣言は軒並み解除され、これまで休業を強いられていた職種も再開し始めてはいるが、ビニールシートが人との間に壁を作っている。今の現状を踏まえれば当たり前だがやはり不自然と感じる。

消毒をすることも、様々な感染予防対策を講じることも大事だ。
免疫力の弱い人なら尚更だろう。
無症状の感染者もいるという。
見えない恐怖が今も続いている。

世界が今この脅威に立ち向かっている。
だからこそ守らなければいけない非日常の光景が、何も不安なく元の姿に戻れる日はまだ遠いようだ。

自然界の人間への警告なのか?
それとも悪意を持った人間による戦略なのか?
事実を探るより乗り越える方が今の課題に違いない。

2020年6月3日水曜日

東京アラート

首都東京では緊急事態宣言解除後の注意喚起に、東京アラートなるものを発令している。都庁とレインボーブリッジを赤く染めて注意を促すというものだ。
既に発令されたがそれに伴う制限は無いという。

経済的対策もままならないからだろう。
注意喚起することで「お願い」しか出来ない行政と、都民の行動は比例しない。それが第2波に繋がらなければと願う。

まだまだ先の見えないコロナの余波に不安は募る。

2020年6月1日月曜日

音速の奇行師

Twitterでは基本ボケる。
文字数制限があるからコンパクトにボケる。
忙しいからすぐボケる。
そしてスベる。

他の人と違うのは、単純なダジャレから奥深い長文まで考えるということ。
考え始めればどんどん出てくる。
ただし20分が限界。
浮かばないというより飽きるのだ。

ここはじっくり書き込めるので飽きない。
いいねは無いけどそれも良し。

2020年5月25日月曜日

鬼滅のって言われても

去年の年末ごろから急浮上してきた漫画。
実はものすごく人気があって、それが先週最終回だったとかで更なる盛り上がりらしい。

・・・らしいとしか書けないのは、そういう報道レベルでしか知らないから。大筋は分かる。ポイントも掴んでいる。何か読んだ気になる。結局は読まないまま終わるのだろう。

ワンピースや進撃の巨人なども結局読んでいない。
世間の話題との解離を恐れなければ、さほどその時間を漫画を読むに当てる必要がなくなってきたのだろう。

これが大人になるってことなのか?

2020年5月19日火曜日

試してみた

新しいフォーマットにて書き込み中。
元々こうだったらと考えるがしっくりこない。
やはり以前の方が使いやすい。
なので、元の方にしようと思う。

見る分には変わらないと思うけど。

2020年5月18日月曜日

モバイル対応は良いけど

久し振りの投稿。

ブログを開くとレイアウトが何か違ってる。

なんだ?

投稿しようにも出来ないじゃないか!

「以前のBloggerに戻す」を見つけ事なきを得る。

最近さぼっていたからこんなことになったのかと思う。反省。

2020年5月10日日曜日

方向転換

今朝の報道番組にて、ウイルスとの共存共栄について語られていた。
地球上に存在するウイルスで根絶出来たのは1つだけ。
残りはワクチン接種などで食い止めているのだという。

この事実を踏まえて、今の経済危機とコロナ感染拡大防止を天秤に掛けようと言うのだ。
その決断を国は事実上放棄した。
緊急事態宣言の解除を都道府県知事の権限だと主張することで、判断ミスによる怒りの矛先を分散させる目的である。
大阪府知事は早急に反論したが、政治的優位性からか一時撤退の形をとったが、これが後々有効性を持つことは間違いない。

もはやウイルス感染が怖いというより、政治的判断が追い付いていない現状が最大の恐怖である。

そこに様々な人が巻き込まれ、あるべき日常が奪われていく。
今年最大の恐怖物語は続いている。

2020年5月6日水曜日

リバース

昼夜逆転なんて特に珍しい訳でもなく、生活のリズムを掴めずに過ごす日もある。

今がまさにそう。

世間のゴールデンウィークとは無縁の日常を送っているはずだったが、コロナの余波で思いがけず休みを頂いたというのがきっかけ。
大型連休ではないけれど、自分にとってはかなりの大型である。

しかしこのご時世。
少しでもリスクを避け備えておくのが正解だと思う。
思わなかったとしても、出来ることに制限があるのも事実。
やりばのない怒り以上に、行き場はないのだから。

思えば2月半ばにはコロナが騒がれ始め、感染より2週間の潜伏期間が拡大を抑える基準とされていた気がする。
それがもう5月。
オリンピックの延期決定がひとつの節目でもあったように、流れは大きく変わった。
自粛ムードは加速したが、それまでの対応の鈍さが感染を広げてしまっていた。
学校の休校により、教育現場や学習環境は窮地である。
医療現場も切迫して感染リスクにどう立ち向かうのか混迷を極めている。
民間の事業者も廃業に追い込まれようとしているのが現状だ。

国や自治体は補償を手厚くすることで危機を乗り切ろうとしてはいるが、制度の複雑さも相まって追い付いていないと聞く。

季節は梅雨に向かっている。
例年どこかの地域で水害が発生し避難生活を余儀なくされているわけだが、予想出来る事は唯一、今の状態では避難所生活など不可能であるということ。

自然災害と感染症リスク。
移動制限で孤立状態になり失われるものも少なくない。
もはや当たり前の日常が取り戻せるのか不安になる。

冷静に考えれば2週間じっとしていれば収まったのかもしれない。
その軸となる起点の日が今でも定まってないのだ。
そこに政治判断はない。
暴君と言われようが、英断し命を守りきれば後に歴史に大きく名を残せただろう。
「お願い」ベースでしか国民に言葉を発せられないトップが、早期解決の糸口を見いだせるとは言い難い。

深く考えるより、自分の判断力を高めるしかなさそうだ。

2020年5月2日土曜日

スーパーコンボを見たぞ

久しぶりの書き込みと休み。

今日は待望のワイスピ「スーパーコンボ」を観賞した。

シリーズ本編のスピンオフ作品であるが、これまでの作品と次回作を繋げられるように要所を押さえている。
カーアクションも本編よりは少なく感じるが、バイクスタントなどの新しい要素が散りばめられていて、見ごたえ十分だった。

ラストシーンが近づくほどそれまでの派手さがなく、展開としては予想の範囲にとどまった。

カーアクション。スパイ。テロリスト。ウイルス。ファミリー。
今の映画の必要要素を全部乗せにした作品としては秀逸だと思う。

今日はTVで普通に見たけど、次はヘッドフォンで迫力あるサウンドで楽しんでみたい。

2020年4月27日月曜日

スーパーコンボが見たいぞ

大好きな映画のシリーズ、ワイルドスピードの最新作。
と言っても半年前の公開作品だけど、Amazon primeになるまでまってたのだ。

早く観たい。
でも忙しい。

2020年4月23日木曜日

枕を買いました

この時期と言うか通年ではありますが、健康維持の為の睡眠は大事です。特に今は体力、免疫力の低下が感染症にかかりやすく、重症化の要因にもなりかねません。

そこでと言うか、偶然コンビニで見かけた枕に気をとられまして、思いきって購入。
謳い文句もかなりのものです。
安眠を保証していると言うのですから。
これで睡眠不足解消となれば安いものです。

ただ、この枕を試せるのは後15時間後。
頑張って仕事してきます。

2020年4月20日月曜日

コロナ拡大は止まりません

そんな状況で不要不急の外出(いつもしてないけど)は控えております。他県の発生までは静観していたのですが、もうすぐそばに来ているのではという危機感もあります。

仕事はあります。
テレワークが出来ない職種なので出社します。
会社と家の往復です。
いつもと変わりません。

家にいるときは、映画を見たり雑用したりで時間が過ぎますが、後ツィッターで大喜利に参加しています。
大喜利開催してるのではないのでしょうが、勝手に投稿したら大喜利でした。
デーブ・スペクター氏のツイートに鬼投稿しています。

こちらが不在の際はそちらをご覧ください。
他には居ない投稿数でお待ちしています。

2020年4月13日月曜日

依存し過ぎて

Twitterへの依存率が高すぎて、こっちがおろそかになっていた。
反省するけど、Twitterも面白いのが分かった。

ブログは日記帳。
Twitterは雑記帳。
この違いを自分なりに理解しようと思う。

今日はお腹が一日中痛かった。
原因は辛いものの食べ過ぎ。
ピザにタバスコ。
ラーメンにラー油。
瓦そばに唐辛子。

必ず辛いものを入れていた。

ずっとお腹の調子が悪いのに、辛味中毒なので欠かせない。

明日はお腹に優しい食事を心掛けよう。

2020年4月9日木曜日

緊急事態宣言

都市部に緊急事態宣言が発布されました。
法的拘束力がなくあくまでお願いレベルだって。
そんなんじゃどうしようもない気もするけど、企業は国の要請に従って休業するところも出てきている。

自分の店とか会社から「陽性反応」出たらヤバいってなってる。

それでも強硬にイベントやったりするところもあるのだろうか?

自宅が安全って言えるだけの保障あんのかな。

他人との接触は避けなければならない。
何処にウイルスがあるかなんて分かったもんじゃないからね。
国からどうのって言われる以前に注意はしていますよ。

団結よりも個々の意識を高める時代に突入ですね。

2020年4月3日金曜日

なんなんなんでしょう。

政府が新型コロナウイルス拡大の対策として、国民一人辺り2枚のマスクを支給すると発表。
それが努力というのならこの国終わってる。
せめてこのぐらいなら許す。

2020年3月31日火曜日

追悼

ドリフターズの志村けんさんが新型コロナの闘病の末お亡くなりになりました。享年70歳。若すぎる死でした。
自分が子供の頃70歳の芸人と言えば、落語や漫才の見たこともないような師匠で、お正月の演芸番組で拝見する存在でしかなかった。
今では多くの大物芸人が第一線で「バカ」を演じる時代になったものです。気が付けば60、70歳が元気に活躍し、当たり前のように走り回っている。違和感もなく、若手や中堅どころと絡んでいるのですから大したものです。
ただそれも思いがけず、今回のコロナ感染はいともあっさりと奪ってしまうのです。
見えない敵に立ち向かうには、見えない敵に立ち向かう術が必要なのだと強く思うばかりです。
ネットでもお悔やみや思い出を語る書き込みを見かけます。
都知事の発言はやはり言葉を慎まなければならない引用があったと思いますが。
感心事の求心力を有名人の急死の原因になぞらえるのは如何なものかと。
今は日常の一部が欠けてしまった感覚を埋められない寂しさを感じますが、日々の生活を大切に生き抜こうと思うばかりです。

志村けんさん。笑わせてくれてありがとう。
背後からコロナウイルスが迫ってくる状況に「志村~。後ろ~!!!!!!」って言いたかった。(言ってたかも)
その声は届いていたんでしょう。

安らかに。
合掌。


2020年3月28日土曜日

迷惑メールってばさぁ。

いまだに届く迷惑メール。
一つ一つ手打ちではないだろうけど、今時こんなので騙されるものかね。
最新作は「宅配業者」を装った配達メール。
そういうサービスに登録しないと勝手に来るわけ無いのに、朝方4時とかに普通に送ってくる。

あのね。
うちの携帯はメール友達居ないので、すぐばれます。
着信来るとビビる位ないです。

2020年3月24日火曜日

不要不急の外出を控えましょう

パンデミックからオーバーシュートへ段階が移り変わるかもしれない。
実際そうなれば経済活動や生活そのものが機能停止しかねない。
危機的状況を予測しながら、先手を打って行動しなければならない。

とりあえずおとなしくおうちで休日を過ごしています。
お部屋は空気の入れ換えをこまめにします。
掃除は念入りにします。

ネットで大喜利しておきます。

2020年3月23日月曜日

なんか来た。

Twitter経由でDMが来た。
自分が見ているツィートがそういう系だったからか、発言がそっちよりだったからか、「お誘い」の内容だった。

取り敢えず丁寧にお断りの返信をする。

冷やかしか詐欺かもしれないが、関わらないに越したことはない。

甘く見て貰っては困る。
伝説の遊び人は甘い誘いに乗らないのだ。
伝説の遊び人の名に恥じぬよう日々精進しよう。

2020年3月19日木曜日

自己承認欲求について

「いいね」の数が自分の価値だと思うようになったらおしまい。
Twitterを始めてから思うこと。

自分の発言がこの世のどこかでポツンところがっている。
道端の石のようなもの。
特別な輝きがあるわけでもなく、貴重な鉱石でもない。
ただの石ころ。
でも興味を持ってくれる人がいれば嬉しいのも事実。
確かに「いいね」も頂いた。
でもその数に拘るつもりはない。
それが自分を図る指標になってしまったら、本来の自分が消えてしまう気がする。

だからここは変わらず残しているし、少しずつだけれど書き続ける。
ここは自分が生み出した世界。
一部であり、すべて。




2020年3月15日日曜日

異次元クオリティー

文字はその人と成りを表すというけれど、手書きじゃなきゃ分からない。
でも文章は、語尾ひとつでその雰囲気や印象が変わるものです。
そういう体験をしていると、自分はまだまだ浅いなぁと思うのです。
万人受け等狙うわけでもなく、何となく書いているブログだけれど、時には自分の納得する仕上がりの文章を書きたいと思うのです。

2020年3月13日金曜日

話題の中心

ニュースも、ワイドショーも、ネットも、新型コロナウイルスに纏わる話題で持ちきり。ウイルス感染の恐怖だけでなく、経済活動への打撃が深刻化しているのが、より一層拡大しているからである。
マスク不足が解消されないといった状況にも、いつしか慣れてしまった感はあるが、もうそれどころではないと悲鳴をあげている業界は多いだろう。倒産。閉店。破産。当たり前の日常が停止すれば、こんなにも脆くなってしまう社会経済のあり方が、今後どのように立ち向かって行けるのか考えどころである。

そんな中、小倉優子離婚危機報道がワイドショーで取り上げられていた。人々の感心事はそこか?と首をかしげるしかない。
スポンサー有りきの民法TV局にとっては、芸能ニュースを織り混ぜるのも視聴率獲得の定石なのだろう。お昼のワイドショー番組はいつだって主婦層がターゲットなのだろうから、仕方ないか。

と言うことは、ゆうこりんは数字持ってるってことなのかな。
自分的には興味ないんですけどね。

2020年3月11日水曜日

流れて辿り着いて

はまり中のTwitterのフォローを辿っていくと、興味深い方々に出会うようになってきた。
きっと普段の生活では出会うことの無い感性の持ち主である。
そもそも、そういう人達ばかりだと、それはそれで渋滞してしまうほど感情の振り幅が大きいので、こういう距離感が丁度良いですね。

人を傷付けないけれど、自分の言いたいことは言える位。
発想が豊かな方々に刺激貰って、ちょっと新しい世界を探索してみたいと思います。

Twitterにハマってみた。

自分が呟く訳ではないけれど、Twitterにハマってみた。
誰かのツイートにリツイートする形で進行中。
肝心の自分のツイートは「0」件のままですが。

言いたいこと。
書きたいことはここで書けるからいいかな。

ここでも大したこと書いてないけど、Twitterとかって何か自分には大きすぎて分かんないんだよね。結局。
どこでもそうだけど、他人の悪口とか、デマ情報とか流すとかはやってません。Twitterも気になる人を応援するメッセージ限定でやらせて貰ってます。

ここのブログも楽しいけど、他の世界を垣間見るのも悪くない。
そんな感じです。

2020年3月9日月曜日

このコトバつかうなかれ

魔法使いが摩訶不思議な現象を引き起こすときに使う言葉。
「呪文」
そのまま読めば「呪いの文」である。
なぜこのような表現になったかは定かではないが、不思議な力を操る裏では、その代償となる災いがあるとも読み取れる。

アニメや漫画では可愛らしく描かれる魔女(っ子)や、有名なシリーズの魔法使いは勇ましく、決して怖い存在ではないが、中世欧州においては不思議な力を有する者は、男女関わらず「魔女」として忌み嫌われ迫害を受けてきた歴史がある。時には無惨な仕打ちによって命を落とした人もいるようだが、迷信や得たいの知れない疫病の対抗手段だったのだから、何とも言い難い。

現在は魔女の存在など信憑性に欠けるところだが、「呪文」は至るところで唱えられている事にお気付きだろうか?
新型ウイルスで紙製品が不足すると言ったデマも、有効な「呪文」なのである。
その言葉が信憑性に欠けても、目の前から必要なものが消えていく様に変化し始めれば、人はたちまちその呪文に飲まれていくのだ。
恐怖心を煽る。情報が拡散する。現実味を帯びてくる。
今の社会構造では、この流れに言葉を乗せればそういう「呪文」に成りうるのだ。

罪の意識がない言葉は危ういものである。
言葉選びはその人を表す。
だがその人から離れたところでも伝わるのだ。
形を変え、中身が歪んだとしても、発信元の一言として。

不用意な言葉にご注意。
そう思う今日この頃であった。

2020年3月8日日曜日

むすんでひらいて

繋いだその手を振りほどいて君は去っていった。
振り返ることもなく、背中越しのサヨナラが最後だった。
そんなことが何度かあったのをふと思い出す。
思い出とは言いがたい記憶。その先を歩き続けて今がある。

固く結んだ絆もスルリとほどけて離れていく。
不実な現実はかけがえの無い時間を消していく。

一瞬が過ぎていく。
過ぎ去った時は常に未来を辿る。
自分がどうなるかは自分次第でしかないけれど、開いて結ぶには少し戸惑いが付きまとう。

まだ道半ばなのだろう。
心に刻まれた傷みに翻弄されないように生きようと願う。

2020年3月6日金曜日

どこまでいけるか

情勢は日々悪化により規制や自粛が厳しくなっている。
目に見えて変化している人の動きを見ると実感する今日この頃。
まだ不安に駆られて行動するほどでは無いが、拡がりを見せる感染に注意しかないのは、誰しも同じだとそう思う。

何処へ行こうかと考えるより、頭の中の記憶にある場所へアクセスすると、そこは平穏で楽しい時間が今も流れている。
自分の記憶で形成されている領域は、ご都合主義の主観で構わない。楽しみたければ楽しめ、辛くなることもどこかで乗り越えられる。
移動の時間も、チケットも、無駄な準備も要らない。
そっと目を閉じて思い浮かべればいい。
眠りにつくまでの僅かなひととき。空想旅行。

今日は何処へ行こうか。
記憶の果てへ旅立とうか。
現実から解放される瞬間。
体を休めて気持ちを高めよう。

2020年3月5日木曜日

そういうことか

SNS全盛の昨今。
余りある情報量に埋もれるであろう呟きをしてみた。
とあるネット番組のアシスタントさんの卒業を受け、公式Twitterに
書き込んだのだ。
短い文章だが、寂しさと感謝を自分なりの文にして綴った。
それだけで満足なのだが、さっき通知で公式Twitterさんが「いいねをしました」とあったのを見つけた。
届いているんだなっていう事実が見える事で嬉しくなった。
とても単純なのだが、「そういうことか」と納得できた。
きちんと見てくれる人がいる。
アナログ世代の自分にも伝わる感覚がしっかりあった。
返信とかそういうものを望むわけではなく、何気無くしたコメントを誰かがきちんと見ている。
それがいいんだな。

2020年3月4日水曜日

眠たい。

睡眠時間は5~6時間で十分足りる筈なのに、今朝はかなり眠い。
どうしたものか、あくびが止まらない。
あくびとは脳に酸素を送り込むための動作とはいうが、どれだけ酸素が足りていないのかとおもうほどだ。


人少なっ。

頚椎の痛みで久々に病院に行ったのだが、いつもは人混みがある病院でさえ閑散としていた。
お陰で待ち時間もほぼなく診察を終え、スムーズに予定が進んだ。
いつもの受診待ちはなんだ?って思う。

新型ウイルスの影響で、自粛・中止・延期などが拡がっている。
人の動きが制限される状況で見えてくるのは、防衛本能と浅ましい人間性が際立っている。
国をあげてウイルスの封じ込めを図りたいとする政府見解も、初動の遅さ(致し方ないが)や、危機管理能力の低さが露呈する結果ばかりが目立つ。戒厳令を発動すれば、愚かな買い占めや暴動に発展しかねないのは目に見える。それを統制する程の国家力が無いのだから、民衆の善意に委ねて鎮静化を見守りつつ、粛々と国家レベルで出来る(やるべき)検査や特効薬の開発、緊急対策の実施に専念してほしいものだ。

天災以上の危機的状況に立ちむかうには、個々の人間性が重要なのだが、先の見えない不安にどう立ち向かうかは不透明である。

変わり行く世界

夜は短い。
そう感じるようになったのはいつからだろうか。
気が付けば月夜も闇夜も仰ぎ見ることなく過ぎ去ってしまった。
賑わう場所の妖艶ささえ、忘れかけて今を生きている。

どうしているかなんて知るよしもなく、どうしているのと問われることもない。
変わらない距離感がどこまでも続いている。
ただ風の噂のような呟きに、時おり励まされていたような気がする。

その繋がりも消え果てた。
時代の移り変わりなのだろう。
どこかに眠る記録はこの先の未来を映すことなく、現実を探したとしても、空っぽの建物が冷えた壁と扉を晒しているだけだろう。

一方的な情を注いだとしても、溢れて流れる儚き世界。
グラスに映る笑顔を忘却の彼方に差し出せば、思い出という名の忘れ物を、そっと優しく閉じることだろう。

2020年2月29日土曜日

デマに注意

噂とは怖いもの。
真実以上に人の感情に入り込む。
危機感を煽り、安心感を得るために行動させようとする。
それでも噂が噂レベルに落ち着くまでは、安心感を満たすことはない。
正しい情報を聞き入れて下さいと言われても、目の前にあるパニックを傍観できないのが人なのだ。

マスクの原料不足の懸念から、紙製品が不足する。
=トイレットペーパーが店頭から消える。
そんな噂が広まって、慌てた人たちの買い占めが起こり、実際に店頭からトイレットペーパーが消えている。
噂が現実を引き寄せてしまったのである。

目に見えないウイルスの驚異は新たな噂を今後も産み出すだろう。
先の読めない事態に噂が先行し、人々のパニックを扇動している。
もはやパンデミックが起こっている。経済の打撃がその象徴といえよう。

政府や各機関の対応の後手は否めないが、今は冷静に情勢を判断するしかない。
先が読めないのではなく、こういうときほど先が読める生き方をしようと思う。

2020年2月27日木曜日

感染拡大の恐怖

日々の報道のトップ項目で、尚且つかなりの時間を割いて報道される新型ウイルスの拡大。
経済活動の鈍化。イベントの中止や自粛。様々な影響が出てきている。
「あおさ」が予防効果があるという情報が流れれば、一斉に売り切れるといった事態もあるそうで。人間の心理が際立って表面化している気がする。

使い捨てマスクは相変わらず品薄が続き、買い占めや物流の問題が懸念される中、終息の目安がつかない不安がよぎる。

オリンピックに向けて、国や関係機関は99.9%開催できると言ってはいるが、そこにはなんの裏付けも確証もない。
ただひたすら終息を待っているのだ。

日本は危機管理能力が低いのかと言えば、世界各国の評価が物語るところだろう。

平凡な当たり前の日々など、それは人それぞれの主観的時間軸であったりするわけで、その歪みを感じないうちは日常に変化なしなのだ。
ウイルスの恐怖が蔓延する中で、自分はまだ不安を抱えること無く暮らせている。
気を抜くわけにはいかないが、この状況を静観し終息の日を迎えたいと思う。

2020年2月22日土曜日

アイドリング

年が明けて2月もあと僅か。
そう思うと早いなぁと感じるものです。
一日一日が大切な時の積み重ねなのではありますが、過ぎ去りし時間の方に思いを馳せるようになってしまっています。

一瞬先の未来をいかに迎えるかといった感情には行き着きません。
ただ立ち止まっていたとしても、その一瞬は過去になっているからでしょうか。

何か新しいチャレンジや幸運を掴む行動をと思うのですが、今はしばらく足踏み状態が続きそうです。
何か神がかったように天から降りてくる感覚で、閃かないかなと思っている今日です。

そんな事を言っているうちに、時は過ぎ年末何て事になら無いようにしたいものです。

2020年2月21日金曜日

とても言えないけど言いたい。

浅い眠りの中で繰り返される夢。
時々目が覚めつつ、また眠りにつくとその続きが見える。
現実と幻想の融合が奇妙な感情を揺さぶる。

見たことの無い建物の部屋を進み行き着いた先にあるもの。
出会う人たちはどこかで見かけた知り合いのようでそうでなく、その先の展開は、自分の思い描くように開かれていく。
都合の良い欲求が積もって満たされる場面が次々と。

内容は言いたいけど言えない。
秘密にしておこう。
明日も浅い眠りにつくのなら、この続きが見てみたい。
そしたらまたここで何かを書き込もうかな。

2020年2月20日木曜日

タバスコ

ピザに振りかけて食べます。

我が家には常にストックしてあります。

ピザ以外の料理にはあまり使えません。

タコスは家では食べないし。

何か良い食べ物ないかな。

翔んで埼玉観てみた。

地上波ノーカットで放送されたので録画で観てみた。
元が漫画だったという事もあり、ギャグのタイミング的な要素を総合的に見ると、そこまで面白くなかった。あくまで個人的にではあります。もっともっとギャグを詰め込んで欲しかった。

キャストが豪華であったり、権利問題をクリアするのに奔走したスタッフの苦労を好評価します。

一番ウケたのは、千葉の革命軍の父がジャガーさんだったこと。
一瞬写真のみの登場ですがそれが良かった。

2020年2月18日火曜日

救われた。

雑音。
騒音。
音に敏感な時ほど困りもの。
わずかな睡眠をむさぼっているとき、迷惑極まりない。

但し今日は外の工事の音に救われた。
アラームを忘れて寝過ごすところだった。
「ありがとう」と言うべきなのか。


2020年2月15日土曜日

そういえばバレンタインデーだった。

まあね、バレンタインデーに特別興味ない世代でございます。
決して強がっているわけではありません。
あまり縁がない人生だったと言うところからでしょうか、この日に特別感を抱かないようにしています。

義理チョコ何て制度が横行していた時代は、御返しに苦慮し、仕方なく受け取ったとしても、それ相応の金額(もしくはそれ以上)の事もあった気がします。

本命チョコで困るのは、告白のタイミングと一緒に渡すやつ。
そもそもそういう日なのだけれど、全ての人がこの日に報われる訳ではなく、告白する側もされる側も、何気に玉砕覚悟の勝負の日だったりする訳です。
過去に一度はあったかな。そういうシチュエーション。
相手が自分の望む人ではなかったので、丁寧にお断りしました。
その時は、この制度を廃止出来ないかなぁと思いましたね。

逆に配ってみたこともあるけれど、それは意外とウケが良かった。
チョコ苦手な人は少ないからね。

勿論今年はイベント不参加にて終了。
貰える筈がなくても、「0」個記録更新は寂しいかな。
結局それが本音でしょうね。

2020年2月13日木曜日

洒落が利いてる

あまり積極的には見ないのですが、落語は素晴らしいと思います。
古典や創作、新作落語などありますが、脈々と続く師弟制度によって伝承される話芸は、たまにしか見ない自分にとっても、じわりじわりと伝わってくるものがあります。

また話芸に秀でているが故に、司会業やコメンテーターなどもそつなくこなされていますが、そこは好き嫌いがあるので、全ての噺家さんが好きとは言い切れませんが、頭の回転の早さを感じます。
その中でも短い会話の中でさえ洒落の利いた一言を散りばめて来る人は素敵ですね。

座布団の上というエリアで、扇子と手拭いを小物に無限の世界を表現する噺家をリスペクトします。

2020年2月12日水曜日

金運ダウン

昨年金運アップを願って買った財布が失くなった。
確か昨日まではいつも持ち歩くバッグに入っていた筈なのに。
そんなに出動回数がない財布なので失くす事もないと思っていたのだが、金運アップどころか思いっきりダウンです。

宝くじ購入資金を入れていたので、その分マイナスになってしまいました。
取り敢えず戻ってくるか不明ですが、電子申請で遺失物届けを出しました。
もう同じ財布は買わない。
自分の不甲斐なさと共に、財布の持つ不運も恨みます。

アカデミー賞がもたらす効果

世界最高峰の映画賞と言えばアカデミー賞ですが、今年のアカデミー賞の作品賞は韓国映画の「パラサイト」だそうで、受賞から一気に注目されていますね。
外国映画と言うより、英語でない言語で製作された映画として史上初の受賞と言うこともあり、話題性抜群なのだそう。
富裕層と貧困層のギャップを描いたドキュメンタリータッチの映画らしい事しか知りませんが、時代がそう言う問題定義を求めている流れであることは、「ジョーカー」が話題になった事も含め、テーマとして共感できるように思います。

世界の富裕層の5、60人の総資産が世界中の貧困層の総資産と同じとも言われている統計を見る限り、世界は貧しい人で溢れかえっているとしか言えません。ただし、お金が全てではない生活を有意義に楽しんでいる人達が居るのなら、データ上の振り分けには該当しないと思うのですが、それでも貧しく苦しいと感じる人が世の中には多くいるのも現実でしょう。

貧しいからこうするしかないと罪を犯すものもいれば、有り余る財がありながら、私利私欲の限りで罪を犯すものもいる。失うものの大きさは持っているものに比例しない矛盾と、罪の大きささえ金銭的解決で回避できる仕組みが、資本主義の根底にはあるのだ。
仰ぎ見る高き上層を妬ましく思う者もいれば、地に根差し日々を逞しく生きる者もいる。

アカデミー賞が取り上げ、話題になった映画が伝えたい事は何か?
それが真意であったとしても、興行収入で利を得る映画である以上、得た利を還元するわけではないだろうから、そのテーマとなった半地下住居の住人は何ら変わり無く生きていくことだろう。

そして話題となった映画をこぞって見に行く大衆も、幸せな人達であると思う。
その映画を見て何かを感じても、胸の中に仕舞って当たり前の日常に戻れるのだから。

2020年2月11日火曜日

刺激的過ぎるのもいかがなものか

料理のアクセントに香辛料を追加する場合がある。
うどんなら七味唐辛子。ラーメンなら胡椒。ピザならタバスコ。
用途に合わせて様々なものがあるが、辛いものが好きである。
ついつい入れ過ぎてしまいそうになる程である。もしかしたら入れ過ぎかも知れない。

我が家の冷蔵庫の香辛料の半分は自分専用と言えよう。
勿論使うのも自分だが買うのも自分。補充も自分。
なので、こだわって良いものを買っていると言いたいが、そこそこ多めの消費量なので、お買い得なものを定期的に買っている。
あくまでも料理のアクセントなので、出汁や素材の味を引き立たせるレベルを越えてはいけないが、辛味が減ると追加しながら食べ進むので、それなりに消費が早いのである。
牛丼屋なら、使い放題とばかりに2、3口毎に七味唐辛子を追加するのである。

但しTVで激辛料理を扱っているのをみると、思うことがある。
「それはないなぁ」
ただ辛いのが好きなら、唐辛子をかじってれば良いのにって思う。

もしかして自分もそう見られているかも知れないけど。

菌に負けるな

新型コロナウイルスの猛威が止まらない。
日々の報道のトップニュースで取り上げられ、様々な情報が刻々と変化する状況を伝えている。それらをきちんと精査し正しい情報と、予防対策を取っていれば怖くはないと思うのだが、過剰反応する人間性と、情報統制の思惑から外れた民衆の暴走が止まらない。買い占めや転売等がそうだ。予防対策は重要だが、高価なマスクをしたところで完全に防げるわけでなく、アルコール除菌も潔癖症レベルの気の使いようが必要だろう。

それよりと言ってはどうか分からないが、花粉症の季節が始まったらしい。普通にゴーグルやマスクが手放せないと聞く。
隣国のコロナより自国の花粉といったところか。

それどころか経済的影響が各方面に出てきている。
多くの工場や市場を抱える中国が制限と停滞を起こせば、世界が風邪を引くようなものなのである。
特効薬やワクチンのようなものはすぐに出来ないように、経済活動にも特効薬はない。

このパンデミックともいえる新型ウイルスが終息するまでは、しばし辛抱の日々なのである。

2020年2月9日日曜日

使い方次第?

ある人のTwitterを最近読み始めたのですが、きっと個人的な事とはいえ、どうしても許せない事情があるのでしょう。急に雲行きの怪しい文言が並んでいます。プライベートを晒す事がひとつの武器だとしても、その延長線に人の妬みを買ってしまう事もあるのでしょうが、もはや只事ではない方向に進んでいるのがリアルタイムで伝わってきます。

決してそれらを否定もしませんし、非難もしません。
今自分が伝えたいことなのでしょうから。
ただ、その辛い書き込みに「いいね」が付いているのが不思議でなりません。共感や同感の意味なのでしょうか?

分からない自分は「いいね」を押せずにいます。
「いいね」も使い方次第なのでしょう。

驚いた。

何が引っ掛かるか分からないものですね。

タイトルがヒットしたのでしょうが、一年前の書き込みをご覧になった方がいるようで御座います。きっと期待している内容に程遠いのでそこからすぐに退散されたようですが、迷い込んだとはいえ見てくださって有り難うございます。
勿論いつも見てくださる方にも感謝です。

何か人のためになるような格言など語る訳でもなく、思いつきで更新するヘンテコブログですので、頭を柔らかくしてご覧ください。


2020年2月8日土曜日

気が付けばこうだった。

ふと思い返したら様々なものが変化している事に気が付きます。
美味しかった料理屋。甘味処などは結構無くなっているものです。
通い詰めたお気に入りの店がいつのまにか無くなると、その味が恋しくなるものです。

逆に今でも営業しているお店でも、足が遠退く店もあります。
そこにある思い出と、現在の自分がリンクしていないからでしょう。
記憶が風化して純粋にその店のメニューを楽しめるには、まだまだ時間がかかりそうです。

そういった意味ではファストフード店は思い出の場所にはならないと思います。なんの気負いもなく、空腹を満たすだけに立ち寄ったからでしょうか。

今良く利用している店も、いつかそう言う思い出の場所になるのかな。
それが分かるのは、「気が付けば・・・」という時間が経っている事が必須なのでしょうが。

何でも叩かれるんだな。

もしかしたら古びたゲームセンターにひっそりとあるかもしれない。
「もぐら叩き」
10個ぐらいの穴の中から頭を出したもぐらをハンマーで叩くというゲーム。
最初は叩きやすいように一匹ずつでてくるのだが、後半からはアトランダムに出てきて難しかったなぁ。

芸能人の薬物所持・使用に関する裁判の後、本人直筆の謝罪文が公表されたのだが、その内容より字が汚いと話題になっている。
内容が真摯な心情を綴っていても、ワード等のソフトで打ち込んだ活字でなくても、字が汚いと酷評されるのだ。
一文字一文字丁寧に書いたとしても、一瞬の飛び込んでくる情報として捉えればそうかもしれないが、イメージにそぐわないというところか?
字が綺麗で達筆なら許されるのかは疑問だが。

何でも叩くんだな。
そう思った。
自分はどちらかと言えば字は綺麗だ。
ただ悪いことをした後に自筆の謝罪文を書いたとしても、それを評価される立場でもないが。

2020年2月4日火曜日

芸能人ユーチューバーに物申す

最近芸能人がユーチューブチャンネルを開設して話題になっている。
地上波では出来ない事や、レギュラー番組を持たない事で、発信の場所を求めた結果であろう。
勿論再生回数で利益が発生するといった意味では、ネット営業とも言える新たな仕事の場である。
話題になれば地上波にも取り上げられ、相乗効果もある。
見たい人が見れば良い訳で、その結果も数字で表れるだけに、新たな人気のバロメーターになるだろう。

純粋なネット出身のユーチューバーはその稼いだお金で、庶民が出来ない贅沢な企画を打ち上げているように見えるが、そういう連鎖もいつか飽きられていくだろう。
イタズラ動画や不謹慎動画は停止され排除される。
芸能人はどういう切り口でネット動画に取り組むのか?
そういう意味で興味がある。

今注目は「エガちゃんねる」である。

80分では物足りない

お休みや時間があるとき映画を良く見ます。
ネット配信という便利なツールのお陰でしょう。映画館に行かなくても、レンタルして返却日を気にしなくても見れる環境は有難いものです。

最近見る映画は内容も然ることながら、本編の時間をチェックしてから見ます。たっぷり120分越えの作品は見応えがあるのですが、どうしても次の予定に被ってしまいそうで、本当に余裕がないと見ることができません。なので、80分ぐらいの映画を多く見てしまいます。
40分の差は大きく、物語の導入部も細かい設定もカットされているようで、展開が急に進むことが多いようです。見ていて、何故こうなったとか、どういうキャラクターなのか不明のまま終わることも少なくありません。

キーマンであるはずの脇役がいきなり登場して物語が急変したり、前半に少しだけ出ていてラストで急に活躍したり、本当はもっと描かれている人物像が欠けていると、何だか損をしたような感じになります。

それでも80分にこだわって映画を探してみる自分。
物足りなさとの葛藤が尽きません。

2020年2月1日土曜日

おすすめはいかがですか?

ネットニュースを見ていると、「あなたにおすすめの記事」が挙がってくる。いや、余計なお世話なんですけど・・・。と思うのだが、極々稀に読みたくなる記事もある。
そして意外と読みごたえある記事であったりする。
好きなのはインタビューやドキュメンタリー。取り上げられた本人の声(本音)らしき記事は、結構攻めた内容が多い。

これだけ情報が溢れかえっている時代に、ネットとはいえあまり読まれなさそうな場所で語っているのが、何処か思うところの捌け口にさえ感じる。
表に対しての裏ではなく、どちらも本人の顔なのだろう。
そう思うと、おすすめも悪くない。

おかわりはいらないけど。

2020年1月31日金曜日

無機質な世界はすぐそばにある

誰かの心に寄り添うには、自分の心が広くなくてはならない。
感情を緩やかにしておくことも必要である。
言葉のひとつひとつを洩らさず聞く耳も、それに対して返す言葉の選択肢も、可能な限り用意できる程の深さが重要であろう。

薄っぺらいありふれた感情移入は、暖かみより冷たさを増す要素でしかなく、かといって振り切れる程の同調も現実的ではないとさえ思う。

誰かのためにと行動するには、自分の営利を取り除き、無償の奉仕が出来る信念が必要不可欠である。自分を殺すのではなく、自分をしっかりと形成している芯の強さを持ちつつ、周りの状況を受け止める余裕があってこそなのだ。

とある人物がSNSでペット(家族)の死について書き込んでいた。
心が折れそうな日々を送っているという。言葉がその辛さを訴えている。読めば自分もその感情に同化してしまいそうなほどである。
それに対して言葉をかけるのは簡単なのかもしれない。多くのレスポンスがあるように見えたが、その一人になるのは控えておこうと思った。きっとその苦しみはその人にしか分からないほど深く、そこに書かれている内容の真相を勝手に解釈してしまうことも、なにか危険な気がしたからだ。

見ず知らずの赤の他人だと割り切れば、何も感じなくなる。
無機質な世界はすぐそばにある。
だからといってなにか出来るわけでもない。
余計なお世話だと言われかねないからではなく、言葉が浮かばない悲しみをどう表現すればいい。答えが見つからないまま、その人の書き込みになにかを残すことは、あまりにも失礼であると思ったのだ。

それだけこの世界は難解なのである。

見えない敵

いよいよマスクが売り切れ始めているようです。

新型コロナウイルスの猛威が市場に影響してきていますね。
インフルエンザの方が感染率も重症化もしやすいらしいのですが、未知なるものへの恐怖は拭えないようです。
そもそも論で言うと、衛生管理の観点から言えば、インフルエンザ等のウイルスが拡大する根元の地域とされる地域は、手洗いの習慣や、汚物処理の環境が整っていないと聞きます。どれ程なのか真偽は不明ですが、慌ててアルコールなど散布しても仕方ないぐらいなのです。

出来る事と言えば、手洗いうがいを徹底すること。
マスクをすること。
無用な外出を控えること。
まぁ、それで良いなら出来ることですね。

誰がウイルスに感染しているかなど分からないのですから。

2020年1月30日木曜日

キャンバスは白

絵になる人がいる。
正確には「画」になる人といったところか。
一番には誰もが認める美しい人だったりするのだが、客観的概念は様々なので、個人的主観(偏見)で捉えれば、共通するところは素顔が可愛い人であるといえよう。

内面的な部分は分からないにせよ、自分を商品として価値を見いだし活躍する職業は世の中に数多く存在する。
芸能人。アナウンサー。ミュージシャン。モデル。・・・等のようなメディアに出る人が中心の話題であるが、ネットで個人で配信している人も、それらに含まれるようでもある。(あまり詳しくないので)
とにかく、見て楽しむには自分の好みという概念に強く反応する人が良いわけで、そういう人の活躍する姿は結構チェックしている方である。
そして、何故だか自分の興味がある人は「素っぴん」公開っていうのをしていることが多い。余程の自信があるのか?頼まれたら断れない性格なのか?追及するつもりもないが、悔しいことに素っぴんも良いのである。もしかしたら素っぴんの方が良くない?ぐらいなのだ。

いにしえより、女性は美への追及と共に化粧の文化があり、それによって華やかさを得てきたわけであるが、究極の美は素顔であると言いたい。化粧をすることでより一層美しくなるのも事実だけれど、そのベースを活かせていることが大事なのである。

まぁ何だかんだ言っても、そんな人の事を評価できるほどではありませんが、ふと思った事であります。

2020年1月29日水曜日

どうしたものか

外出先で知り合いに出会うことがあります。
近所や生活エリアであれば、ご近所さんや何かと関わっている人なので普通にご挨拶して失礼します。
ちょっと遠出した先や、旅行先で思いがけず知り合いに出会うと、本当に知っている人か迷う時間があります。話し掛けて人違いだったら。何か大事な要件で来ているのだったら。もしかして極秘のお出掛けだったらなど、勝手に巡らせてしまうのです。
相手も気が付いている風なら話しかけますが、そうでない時は極力スルーすることも多い気がします。

自分の人生の中で多くの人との関り合いがあったとて、繋がりは共有する時間と内容によって変化するものだと心得ています。自分が親しいと思っていても、相手がそれほど思っていないのではないかと小心者の感情が動くのです。

出来るだけオープンな性格でありたいと思うのですが、ほんの一瞬でも気を抜かず人間観察と分析をするこの性格。
臆病者の予防策なのでしょうが、どうしたものかと思うのです。

2020年1月28日火曜日

粋でありたい

一歩外に出れば、自分以外の人との関わりが待ち受けている。
自分がどう見られているか。自分がどう映っているかを気意識し過ぎていたらきりがないが、自然体で特に問題がなければ良いのかもしれない。

まるで透明人間のように見えない存在であれば、カッコ悪さも気にならないのだろうが、流石にそういう事はないので、最低限見た目にもこだわらなければならないだろう。
外見的評価は清潔感が基本として、高望みの装いはもはや皆無である。つまりそれによって何かが変わる事を期待しなくなったと思う。
それよりは内面的に繊細な気遣いが出来るかである。
言葉も仕草も行動も、如何に「粋」であるかなのだ。
無理に取り繕ったところで、不格好な醜態を晒しかねない。
ちょっとした気遣いがさりげなく出来ることが、果たして今の自分に出来ているのだろうかと思う。

かねてから気を付けていることは一つある。
誰かに何かをしたときに、「してあげた」と思わないことである。
つまり貸しを作らないこと。
勿論、借りは作らない。
その関係性に「粋」は感じない。
優位な立場になれば、人は上から目線の横柄さを露呈してしまう。
それは避けたいのである。

誰かを手助けしたとしても、名前も告げず去っていく善人程とはいかないが、懐の深い人になりたいものである。

2020年1月26日日曜日

晒す勇気と志し。与えるものと失うものの僅かな隔たり。

そこにあるのは多分どうでも良いこと。
興味も共感も一瞬で途切れてしまうから。
深く考えないで先に進もう。
感情が揺さぶられる程の衝撃も、明日の記憶にはならない。

誰かのためにと嘯いているよりは、自分が生きる糧にしてますと言い切った方が良い。浮かれていられるのは今だけだと、祭りの後の静けさを予感しながら過ごす者は少なかろう。

数を競えば限りなく。
その頂の誇らしげな笑みが浮かばずに入られない。
小さな積み重ねから始まったチャンネルは、気の遠くなるような散財を夢物語にして見せつけている。

敢えてそこに行き着くことはなく、言葉が何かを包み込むような場所を見つけようとしている。
この世界は傷付け合って尚、無痛の叫びを繰り出している。
見えない血を流し、枯れ果てた涙さえ、一蹴されてしまいかねない。
事実も仮想も混在しながら巨大化する。

穏やかな一言が綴られた場所があるなら、そこで一休みしよう。
繋がる事の幸福感は一欠片なのかもしれない。

2020年1月25日土曜日

ミルクとサンドとナイ。

最近ユーチューブで漫才を見て楽しんでいる。
漫才のネタは3分位なので空き時間に見るにはちょうど良い。
過去のネタでも面白いものは面白い。

M1で優勝したミルクボーイは同じ流れのネタだが、そのベースがしっかりしていて飽きない。最後のオチでどう締め括るかがきめてである。
サンドウィッチマンはコントもするが、やはり漫才が上手い。
絶妙なボケを重ねてテンポが良い。
ナイツはとぼけた感じで進んでいくが、大オチに繋げる流れが絶妙なのである。

漫才を始めお笑い全般が好きだが、やはり漫才が最強である。
そう勝手に思っている。
そして売れても漫才ネタを作り続けている芸人は面白い。
常にアンテナを張り巡らせて、新しい事に取り組む姿勢と、進化が止まらない芸人は面白い。キャラ先行型の芸人は飽きられたらおしまい。残念ながらそういうものだ。

ネタで勝負する芸人に今後も期待したい。

はじめてみた

SNSにはあれほど興味を示していなかった自分が、
最近少しだけ関心を示しています。
自分が投稿するためではなく、興味がある人物の投稿をみるためです。なので、自分からなにかを発信することはありません。

「フォロー」や「いいね」はやたらと付けません。
見たい記事があれば見ます。
飽きたら見ません。
そんなモチベーションで始めました。

今やSNSで稼いで大金持ちって人もいる時代。
思いがけずそうなった人も、それを目指して頑張ってる人も、ほんの一部とはいえ夢のある話ですが、真似しようとも思わないのです。
ただ、何処かで何かのヒントになればという考えはあります。
自分の知らない世界を垣間見る事は、果てない欲求のひとつですから。

新しいチャンネルが増えたと言うべきなのでしょう。

2020年1月24日金曜日

インフルエンザ

新型ウイルス流行に世界が警戒している。
昔からあるウイルスに対しても予防と治療法があるとはいえ、根絶出来ないままの現代。新しいというか、従来あるウイルスが変異するのは致し方ない進化なのだろうか?

自分の場合は子供の頃にかかったような気もするが、長い間インフルエンザにかかった記憶がない。周りで発症したとしても、自分が体調を崩す事が今のところない。頑丈なのではなく、気合いで押さえ込んでいると自分は思っている。咳や発熱を誤魔化して生活しているのではない。症状が出ないのだから間違いないだろう。

そう言えば近年薄着で生活している。
気温が下がっても、Tシャツにダウンとかの2枚重ねで外に出るのだ。寒いと普通に感じているが、多くの重ね着は考えられない。
寒さに弱いと自負している割に薄着で生活している事が、意外に健康的に良い影響を与えているのかも知れない。

ただ、ウイルスが蔓延している環境には警戒しなければならない。
いくら自分が強くても菌を貰うのは気が引ける。タダでも要らない。
目に見えないから避けられないけど、気を付けたいと思う。

今日も元気だ。
平和な1日でありますように。

2020年1月21日火曜日

Game Over

「もう終わりにしよう」

そう告げて区切りをつける。
今までの出来事は架空の出来事。
記憶装置に操られただけの意味のない世界。
結末さえ定められた物語を辿っているだけ。
笑顔も泣き顔もあの感動さえも偶然ではない。
全てが造られた幻想なのだ。

あの頃の出会いと別れが混沌と交錯する。
思い返せば、まるでゲームのように限られた世界観でしかない。
リセットが効かない生きざまが、バットエンディングを避けるように、幕を下ろすための呪文を唱える。

コンティニューもない。

メモリーが容量限界でフリーズするかのような状態が、度々主人公になった自分を傷付けて苦しみを与える。

最強のアイテムを手に入れたところで、ラストにまで向かうことはない。

新しい旅が予想の域を越えてくる。
それが生きるということ。
それが生き抜くということ。

2020年1月19日日曜日

読んでみたい

ネット記事でビートたけしのコラムが抜粋してあった。
食事に行った店で偉そうに出来ないという話だった。
大物芸能人が故に「おもてなし」や「特別サービス」を受けることもあるが、恐縮するというか、その味に納得できなくても文句も言わず、「美味かったよ」って言ってお金を払って帰るのだそう。

その根元は師匠の教えがあるという。
「芸人って言うのは粋でなくちゃならない」
いつでも見られているということを意識して、周りの人を楽しませられるのが本当の芸人だというのだ。
色々師匠の教えについても書かれていたが、確かに粋であった。
その教えが今もいきづいているのだという。
毒舌漫才でスターダムにのしあがり、今も第一線で活躍し続ける芸人の意外な一面である。

それらをまとめた本があるのだが、電子書籍化しておらず読むのを断念した。
他にも多くの出版物を出しているし、きっと読めば目の鱗が取れる衝撃がありそうだが、ここは堪えておこう。
本を買う余裕もそれを保管する場所もない。

ネットでこぼれた話を拾い集めようと思う。


2020年1月18日土曜日

気になることのつづき

女子アナがタレント化しているというのはもはや当たり前の時代だが、報道も出来てバラエティーもこなす女子アナの対応力は目を見張るものがある。

局によってはバラエティー専門のアナウンサーも見られるが、それは局が財力があるから専属で振り分けるのだろう。勝手な推測ではあるが、そう思う。

このところバラエティーで進行役のアナウンサーが気になってしらべたら、フリーアナウンサーであることが多い事に気が付いた。
有名なフリーアナウンサー事務所のセントフォース所属であることが多い。何かすごいなぁと思う。

そんな感じです。

気になること

TVを見るときの条件。
番組内容。出演者。アシスタントをつとめる女子アナ。
どれかがヒットすると何となく見ている気がする。

かつてはフジテレビが女子アナの宝庫だった。
美人でバラエティーでの対応力も高かった。
続いて日テレと言ったところ。
勝手にランキングするならこの順番。

今は自分的にはテレ東。テレ朝とTBS(同率2位)と言った感じ。
かつての二強は3位以下となっている。
決して2強だった局が下がったとは言わない。
今の自分のランキングの上位は可愛いのである。
ツンとした美人というより、周りを照らすような笑顔が素敵なアナウンサーが多い(もしくは一人はいる)局が上位になっている。

新人アナも人気が出て、早い段階でフリー転身が当たり前になっているだけに世代交代も激しいが、今はホンワカ癒し系が主流になっている。各局の面接官の感性に感謝しよう。(どういう心境だ?)

つづく。


2020年1月17日金曜日

ゆるい話

政治評論家のような話をしてしまったので、軽い話題を挟みたいと思う。

人にもよるけど、どうして赤ちゃんや小動物と接するとき、良い大人(良い大人繋がりではない)が赤ちゃん言葉になるのだろう。
優しく問いかけるまでは理解できるが、途端に「~でちゅね~」と恥ずかしげもなく言うのである。
言われた側が言葉を発しないのを良いことに馬鹿にしている訳ではないが、時折そういう風に聞こえてしまうのは、どちらかといえば聞いている自分に問題アリなのだろうかと思いつつ、どうしても馴染めないのである。
もちろん自分はそういう言葉を使わない。赤ちゃんだろうが、小動物だろうがいつもと変わらない言葉で接するようにしている。
ある意味一個体としての人格や性質に敬意を払っているつもりだが、周りからみれば愛想のない奴だろう。

でもどちらも可愛いのである。
悔しいがその存在だけで許されるのである。
何もできなくても、何か失敗しても許容の範囲を越えないのである。
その事実に嫉妬しているのだろうか。
いや、他と混じって許しているに過ぎない。
ただ、自分はそこに戻れないことを目の前の「可愛い」存在を通じて知らしめられる現実に反発しているのだろう。

あとは自分のキャラではないと思い込んでいるのだ。
自分のキャラって人からどう見られているかは不明だが・・・。



良い大人

立派な大人になりなさい。
誰しもがそう言われて大人になった。
自立できる大人。
人のためになる大人。
社会貢献する大人。
なにを持って良い大人と定義できるかは別として、良い大人にそれぞれなろうとするのである。

世の中には「先生」と称される職業が多く存在する。
少なからずとも良い大人の代表格であろう。
そういう肩書きを与えられ胸を張って生きている人も、その立ち位置に辿り着くために画策するのであろう。いずれ暴かれ白日の元に晒されるとは気づかずにである。
問題は姑息な手段に魂を売ることもそうだが、その問題発覚後の対応である。

とある国会議員の公職選挙法違反が報道された。
該当議員はその日から国会審議欠席、大臣だった夫も辞任し共に体調不良を理由に雲隠れしたというのだ。
脈々と受け継がれた疑惑からの逃亡手段。
病気になったと言えば逃げおおせるのか?

久々に公の場で会見すれば、「適応障害」の治療中であると言うし、国会議員は辞めないと言う。
疑惑について捜査中という理由で発言できないとか。
全く持ってご都合主義の弁明に呆れてしまう。

先生って呼ばれ続けたいのではない。
その甘い汁を吸い続けたいだけの吸血鬼なのである。
暗闇の棺桶でその疑惑を晴らそうとする日光から身を潜め、十字架の呪縛から遠ざかり、正義の杭から逃れ続けているのだ。

まぁ、汚職議員等珍しくはないが、国民のために身を削り働いて、崇められる程の大物議員ぐらいにして欲しいものである。
あってはならないことだが、小物が姑息に税金を搾取するのは如何せん納得いかない。

昨日の報道を見て思ったことでした。

2020年1月12日日曜日

わがままな君

サヨナラまであと少し。
出逢った時からそんな時間が過ぎていく。
手を振って笑顔でお別れするためにここにいる。
虚しいと嘆くまでもない。それが約束なのだから。

待ち合わせも偶然に任せて、過ごすひとときも必然ではない。
どこに向かうのかなんて宛もない。進めばその先に別れがある。
少し前を歩く君が振り返る時に告げるサヨナラに、どこかで物語のエンディングを待ち望んでいた自分が見える。

それは遥か遠くの記憶。
そして忘れ難き心の欠片。
もう二度とないであろうあの頃の無垢な煌めきに、いつしか憧れる自分を感じていた。

2020年1月11日土曜日

読み解く不可解な想定の事象

近年実に通常の感覚では計り知れない犯罪が起こっている。
年末から新年に架けてその裁判による審議が始まり報道されている。
忘れかけている事件の内容を掘り返し、その残虐性や不条理な動機など露になるのだが、必ずと言って良いほど弁護士による「心神耗弱状態による責任能力の衰退により無罪主張」を提示し、精神鑑定を要求することだ。これはもはや凶悪犯罪が起こりうるメカニズムを根底から否定し、法の元に平等と謳う国家の原則を乱用しているにすぎない。先進国ならではの裁判システムのバグのようにしか思えない。
裁判にて有罪確定するまでは「推定無罪」というのが原則らしいが、多くの目撃者の前で罪を犯し、現行犯逮捕され、自白までしても、「推定無罪」なのである。おかしな話だ。

法廷で謝罪の言葉もなく、自身の主張を繰り返し、自ら極刑を望もうとも、過去の判例を引き合いに減刑されるケースがあることを逆手に、どこまでも態度を変えない罪人の言動を、新年から報道で見聞きしている。
被害者感情を無視している訳ではないと思いたいが、裁く側に法が平等という原則論が欠如し、重罪に厳罰のバランスが傾いて見える。映画で描かれるヒーローでさえ、正義のために多くの犠牲や破壊を尽くし、法で裁かれることが出来ない悪に立ち向かうのである。そういう映画が多く作られる背景には、法制度の脆弱さが常に問われているに違いない。

現行の立法制度を批判し続けても仕方ないのだが、それらを行使しなければ生きづらい国家になっている現状を改革しなければ、安全国家といわれた国も神話に終わるだろう。

確かトムクルーズ主演で、犯罪予備軍を予測し身柄を確保すると言ったストーリーの映画があった。AIを駆使し犯罪抑制をするが、その機関のエージェントである主人公がターゲットになり逃亡。隠された陰謀に立ち向かうと言ったストーリーだったと思う。
人の趣味嗜好を分析し、傾向・対策を講じれば予備軍確保ができる日が来るのかも知れない。無実であれ、罪を犯す前に予防できるのが賢明であるかのようにも思える。
ただし無実の一般人を拘束する世の中は異常でしかないとも言える。

犯罪の無い世界を願う。
国同士の争いでさえ収まらない現代だが、願うしかないのである。

2020年1月8日水曜日

書き初めしましたか?

日本の風習のひとつに「書き初め」があります。
新年を迎え年の初めの目標や願い事を習字で書くというもの。
今時は学校の宿題や神社などの行事でしか行わないと言った印象ですが、心機一転目標をたてるには良い風習でありましょう。

書き初めこそしていませんが、今年の目標を考えました。
「これまでお世話になった人に手紙を書いてみよう」
であります。
1年を通じてゆっくりできる範囲でやってみようと思っています。
メールではなく、手書きの手紙を書いてみたいと思います。
何人にという制約も、いつまでにという締め切りも決めず、今年の小さな目標にしました。

誰に書くかも具体的には決めていませんが、返事が戴けることを期待する訳でもありません。自分が感謝の意を伝えたいと思った事柄を近況を添えて書けたら良いなというぐらいのものです。

一年計画の自分なりの書き初めになりそうです。

2020年1月7日火曜日

守り神
















運気アップします。

夢に向かって進め

今日は少し特別な日。
誰しもが一度は経験する試験の当日である。
もちろん自分のではない。
それは遥か昔に経験したのだが、巡り巡って次の世代になった。
ここまで来たかという思いと、これからが本番という思いが複雑に絡み合うと言った心境である。
100%確実視の試験だが、望むべくは優位な順位を勝ち取ること。
準備が万全と言えるのかは疑問だが、どことなく余裕を持って挑んでいる。

結果発表まで緊張は続くが、今日を無事に乗りきれれば春はやって来る。そう信じたいものだ。

自分ならこうしておくだろうと言えるのは、経験値が高いからである。それは積み重ねた失敗の数と無駄にした時間の蓄積から編み出した攻略術に他ならない。
それらを要約して伝授しておいた。
キラーフレーズを駆使し、成功の報酬を得られることを待ち望むだけである。
そして今の自分に出来ることは祈ることだけ。
無力なようだが、信じる事が最大限の応援だと思う。

時にこういう場面が人生には付き物だ。
平常心でいられるのはそれだけ生きてきた証なのかも知れない。

2020年1月6日月曜日

揺れる地表の突出した思惑

通常営業開始のワイドショー。
年末年始の出来事をまとめて詰め込んでくる。充分に編集する余裕があったのだろう、ギュウギュウに渋滞している感じが否めない。
順番は事件や国際問題などの固い報道から流し、芸能関係にシフトしていく。数字が見込める芸能ゴシップは中盤の要と言ったところなのだろう。

少なくとも今注目すべきは国際情勢である。
一国の長が「喧嘩」をけしかけているのだ。
それは多くの犠牲を産み出すだけの無益な愚行なのだが、一方でその求心力に一票という難解な図式が出来上がっている。
本質は何なのか知らされず、命令という高圧的な指示のみで色褪せた未来を描くために戦いの場へ向かう者達。終末を告げるボタンに手をかければ、一溜りもなく世界は終わる。歓喜は狂喜へと移り変わり、首謀者への糾弾はどよめきとなりて、正義とは何かを改めて指し示すのだろうか。
手軽な発信源で軽率な言葉を綴れば、否応なく人の精神を揺さぶり、その仰せを逆撫でする。足元が危うくなった立ち位置を強固にすべく取った手段は、関係のない多くの命を恐怖に晒すのだ。
ただそれを静観するしかなく、知らされたところでどうしようもないと諦めるのは早い。願うことは事態が最悪のシナリオに書き換えられない事である。
歴史上この先あってはならない悲劇を見届けずに済むように。
頂点にいると勘違いする者達の心はどこに向かうのか。
超人的な力を持つヒーローなどいない。アベンジャーズもウルトラマンもいない。
正義は真の強さを持った者だけが使えるアイテムなのであろう。
弱さを包み隠すために兵器を抱え、それをちらつかせている内は難しいようである。

・・・地球の片隅で思う。

2020年1月5日日曜日

宇多田ヒカルについて語る

新年のTVに宇多田ヒカルが出ていた。
トーク番組なので歌わなかったが、それもまた良しである。
と言うのも、彼女の感性に魅力を感じるからであろう。
15歳で歌手デビューしてその類いまれなる歌唱力と創造力でスターダムにのしあがったと言うことは言うまでもない。

楽曲や歌手としての評価などをここで書く必要はない。
今回書きたいのはその個性的な感性である。

一時期ネット掲示板をよく見ていた。
今でも公式サイトもあるだろうが、最近は正直見ていない。
よく見ていた頃の楽しみは、本人の日常を綴った言葉の選択が優れている事だった。
変わり行く環境と立ち位置にどこか翻弄されていながら、自分は自分らしく在りたいというメッセージにも取れた。
楽曲がより壮大なテーマに舵を切って行く頃、言葉はやや立ち止まりを見せていた。その頃から公式サイトを始め、彼女の情報に触れる事はなくなった。
勝手な想像だが、周りの力に押されて作品を生み出す時代だったかのように思える。

「花束を君に」は衝撃的だった。
聴きたかった歌がまた舞い降りたのだ。
その後の楽曲も心に染みる気がする。

トーク番組などで見る宇多田ヒカルはいつも独特だ。
世界観というか自分のリズムを身の回りに纏わせている。
壁はないのに踏み込めない独自性があり、それもひとつの魅力になっているのだ。
「落とし物」に自分を重ねて見るという。
なるほどと思うが真似はしないだろう。
真似ることで近付けるとしても、それはそれで違うのだ。

久しぶりに公式サイトでも見てみようかな。
新たな発見がありそうだ。

福来たる福分ける福あげる

新年にまつわる話ばかりですが、時期的に外せない話題でもあるっていう処でございまして、今しばらくの間お付き合いくださいませ。

除夜の鐘をお寺に突きに行ったと思えば、新年早々にお宮や神社にお参りに行くのでございます。人によっては2つ3つとはしごするものだから、神仏も忙しいのでありましょう。

福を呼び込む為の行事に奔走する民の福がこぼれ落ちていたら、回収したいと思う日々です。
回収するって言っても縁起の良い運が目に見える訳でもなく、ただそんな風に思っただけです。


2020年1月4日土曜日

FとかTとかIとかあるよね

SNSが当たり前の時代。
もはやそれが情報を得るだけでなく発信の場になっていることも、人気のバロメーターであることも、収入源になることも理解している。
しかし、どうも馴染めないまま今日に至っている。
気軽にアドレス交換しておきながら連絡が来ないだの、パンク寸前ぐらいまでメールが来ただの、薄っぺらい関係性における繋がりの脅迫性が傍目に面倒なのだ。
個人情報をさらけ出しておきながら、叩かれて落ち込む。
まぁそんな連鎖に巻き込まれたくないので、ひっそりとブログやってるんですけどね。

日本のお正月の風物詩に、有名社長のお年玉ばらまき企画が参入し2年目。今年は1000人に100万円当たるという。
社会実験として行うのだそう。
個人的には多いに結構な振る舞いだと思う。
なんせ元手の要らない宝くじである。
当たらなくても困らない。当たればラッキーである。
これを世の富裕層が真似すれば、日本はもうちょっと景気が良くなるかも知れないが、その為には国民がもう少し成熟しなければなるまい。

SNSを基本しないがこれには応募してみた。
お金目当てではなく、社会実験に参加するためである。
そういうことにしておこう。

明るく照らせ

クリスマスシーズンにお目見えする街の灯り。
街路樹に飾られたイルミネーション。
この辺りにもかつては日本最大級と称された大通りがある。
こういうものは毎年競争となり、規模の拡大に追い付けなくなり順位を下げてしまうのだが、そういう平和な争いであっても無理に競り合う必要もないというのがごもっともな見解である。

以前のように薄暗がりの日没から深夜0時頃まで煌々と照らされていた時代は終わり、今は短くなったと聞く。節電や経費削減の意味合いもあるようだが、人通りも激減しているのが要因のひとつらしい。
日中でも閑散としている商店街が両脇にある駅前は、夜に人を集める要素を持たない。少し離れた飲み屋街は、酔っぱらいがふらつきながら闊歩している姿ばかり。いつでも見れる看板の灯りを頼りに歩いている。

年明けの夜に偶然駅前を車で通過した。
やけにきらびやかな灯りが視界の隅に飛び込んでくる。
そのまま通り過ぎて、2つ先の交差点から戻ってみた。
駅前はまだイルミネーションを光らせている。
クリスマスシーズンだけで終わっていた時代から、Newyearを演出する時代へ変化したのだろう。

眩い光の元に集まる人はほぼいない。
行き交う車の列も少なく、幻想的な灯りだけが目立って見えた。
一人でもこの光の森で幸せな気持ちになれれば良いかなと思った。

2020年1月3日金曜日

賑わう街に繰り出してみたけれど

新年早々冷蔵庫のストックは少なく、せめて今夜のおかずぐらい調達せねばと買い出しに出掛けた。
今日は県内有数の天神様があるところ。いわゆる学業の神が奉られているお宮の麓の町である。
普段はさほど人で賑わっている印象もないが、今日はさすがに人で溢れかえっている。参拝帰りの家族連れだろうか。年末年始を故郷で過ごした人達だろうか。ほんの少しお洒落な装いの人たちが行き交っている。福袋などのセールは昨日までに終わっているのだろう。大きな荷物は普通の紙袋が殆どだ。徐々に財布の紐も通常に戻りつつあるのを、流れ行く人たちを見ながら感じる。

食材以外に買い物の目的がない中で、この人出はきつい。
個人的にはそうとしか思えない新年の休日。

2020年1月2日木曜日

さぁ頑張ろうっと

今から仕事です。

今日も忙しくなるかな?

仕事が終わったら何しよう。

そんなことを思い描きながら働いてきます。

どこかにある

幸せの基準は人それぞれ。
幸せの国と言われる「ブータン王国」は国民の殆どが幸福だと感じているという。その国のことはよく知らないが、先進国ではない小国であるに関わらず幸せであると言いきれるのは、人として崇高な感情共有が出来ている証だろう。

新しい年を迎えるにあたり目標をたてたいところだが、果たしてその目標が自分を幸福に導くものか考えると難しい。
スタートラインを引けばおのずとゴールを目指さなければならない。
低く見積もって達成できたとしても、得られる満足感も乏しいものだ。

それよりもどこかにある幸せをひとつずつ拾っていこう。
そう思う年明けの朝だった。

子供と動物とお色気

お正月のテレビが様変わりしている。
時代の流れとしか言えないが、実につまらないものばかりである。

定番となった年末恒例番組は健在だが、年が明けてのゴールデンは収録済みの特番ばかり。中には寄せ集めのVTRを編集しているだけの番組で、見たことがある映像を新年早々見せつけられる拷問状態である。
働き方改革なのか。少ない予算でのやりくりなのか。コンプライアンスに傾倒した結果なのか。ネットに色々奪われた結果なのか。
どれも含めて番組作りが行われるのであろうが、寂しいばかりである。

TV業界のヒット番組三種の神器と言えば、「子供と動物とお色気」と言われていた。お笑いや歌番組、ドラマやドキュメンタリーなどヒット番組は多いが、その反面不発も多い。間違いなく数字が取れるのは「子供と動物とお色気」なのである。
「可愛い」と「エロい」は無敵なのだ。
但し昨今「エロい」は地上波から撤退を余儀なくされている。
一年中、昼夜を問わず何処かで見ることが出来た「エロい」は、深夜枠へと追いやられ消えていったのである。

その分、「・・・っぽい」が微かに重宝されている。
「キャッチフレーズ」でそれとなくエロさを印象付け、発言やしぐさで彷彿とさせるポジションである。
代表格と言えば壇蜜さん。後追いで橋本マナミさん。そんなところだろうか。しかし両者とも昨年結婚を発表し、一定の役割を終えた感がある。壇蜜さんは自己発信的キャラのような一面があるので、今後も一定の妖艶さと意味深発言で活躍を期待できるが、橋本マナミさんに至っては、事務所主導のキャラ設定を公言しているだけに、そういうキャラは崩壊していくだろう。

新たな「・・・っぽい」キャラが誕生するのだろうか?
狭まっていく地上波の枠組みに食い込める程の逸材はそうはいない。

「子供と動物」でお茶を濁すお正月特番よりネットに頼った方が得策であるのかも知れないが、家族団らんの憩いの場には魔法の箱だったTVはやはり欠かせないのである。
もうちょっと頑張って欲しいものである。

初夢.com

今朝は早くに目が覚めてしまった。
仕事最終日なのに。後一時間はゆっくり出来ただろうに。
眠りについてからひたすら夢を見ていた気がする。
夢を見るということは眠りが浅いということ。
微かな記憶に辿れば、今朝の夢は異質なものだったと思う。
その夢から逃れる唯一の手段は目覚めること。そう判断したのであろうか。

新年最初に見る夢を「初夢」という。
夢の中に「一富士、ニ鷹、三なすび」と言って、縁起が良いとされるこれらが出てくると、一年が幸せに過ごせると言い伝えられているが、まぁ出たためしがない。

映画で「トータルリコール」という作品がある。
アーノルド・シュワルツェネッガー主演のSF作品で、好きな夢を見る店のような場所が出てくるシーンがある。映画の中では、夢ではなく、そこで現実と過去の記憶がリンクしていき、自分の本来の役割を知る事となる所からストーリーが展開していくような話だった気がする。
そう考えれば、初夢ぐらい自分好みの夢を見たいものだと思う。
悪夢などは勘弁願いたいのだ。

但し夢を好きなように操作できてしまえば、ひたすら眠りについてしまいそうだ。常に自分に有利な非現実は、愚かな自分を許し続けるであろう。
そう考えると、今年の初夢は戒めなのか?
新年早々、自分に厳しいなどと思うばかりである。

2020年1月1日水曜日

New year

明けましておめでとうございます。
2020年スタートしました。
昨日と何ら変わらない朝を迎えた訳ですが、何かに繋がれば新年を祝う言葉が飛び交って、新しい年になったのだと感じます。
さて、新年には「今年の抱負」などしたためて、自分を奮い立たせるような風習もありますが、特になく緩くいきたいと思います。

取り敢えずは健康で幸せな一年であればと願います。
今年もよろしくお願いいたします。