2020年1月31日金曜日

無機質な世界はすぐそばにある

誰かの心に寄り添うには、自分の心が広くなくてはならない。
感情を緩やかにしておくことも必要である。
言葉のひとつひとつを洩らさず聞く耳も、それに対して返す言葉の選択肢も、可能な限り用意できる程の深さが重要であろう。

薄っぺらいありふれた感情移入は、暖かみより冷たさを増す要素でしかなく、かといって振り切れる程の同調も現実的ではないとさえ思う。

誰かのためにと行動するには、自分の営利を取り除き、無償の奉仕が出来る信念が必要不可欠である。自分を殺すのではなく、自分をしっかりと形成している芯の強さを持ちつつ、周りの状況を受け止める余裕があってこそなのだ。

とある人物がSNSでペット(家族)の死について書き込んでいた。
心が折れそうな日々を送っているという。言葉がその辛さを訴えている。読めば自分もその感情に同化してしまいそうなほどである。
それに対して言葉をかけるのは簡単なのかもしれない。多くのレスポンスがあるように見えたが、その一人になるのは控えておこうと思った。きっとその苦しみはその人にしか分からないほど深く、そこに書かれている内容の真相を勝手に解釈してしまうことも、なにか危険な気がしたからだ。

見ず知らずの赤の他人だと割り切れば、何も感じなくなる。
無機質な世界はすぐそばにある。
だからといってなにか出来るわけでもない。
余計なお世話だと言われかねないからではなく、言葉が浮かばない悲しみをどう表現すればいい。答えが見つからないまま、その人の書き込みになにかを残すことは、あまりにも失礼であると思ったのだ。

それだけこの世界は難解なのである。

見えない敵

いよいよマスクが売り切れ始めているようです。

新型コロナウイルスの猛威が市場に影響してきていますね。
インフルエンザの方が感染率も重症化もしやすいらしいのですが、未知なるものへの恐怖は拭えないようです。
そもそも論で言うと、衛生管理の観点から言えば、インフルエンザ等のウイルスが拡大する根元の地域とされる地域は、手洗いの習慣や、汚物処理の環境が整っていないと聞きます。どれ程なのか真偽は不明ですが、慌ててアルコールなど散布しても仕方ないぐらいなのです。

出来る事と言えば、手洗いうがいを徹底すること。
マスクをすること。
無用な外出を控えること。
まぁ、それで良いなら出来ることですね。

誰がウイルスに感染しているかなど分からないのですから。

2020年1月30日木曜日

キャンバスは白

絵になる人がいる。
正確には「画」になる人といったところか。
一番には誰もが認める美しい人だったりするのだが、客観的概念は様々なので、個人的主観(偏見)で捉えれば、共通するところは素顔が可愛い人であるといえよう。

内面的な部分は分からないにせよ、自分を商品として価値を見いだし活躍する職業は世の中に数多く存在する。
芸能人。アナウンサー。ミュージシャン。モデル。・・・等のようなメディアに出る人が中心の話題であるが、ネットで個人で配信している人も、それらに含まれるようでもある。(あまり詳しくないので)
とにかく、見て楽しむには自分の好みという概念に強く反応する人が良いわけで、そういう人の活躍する姿は結構チェックしている方である。
そして、何故だか自分の興味がある人は「素っぴん」公開っていうのをしていることが多い。余程の自信があるのか?頼まれたら断れない性格なのか?追及するつもりもないが、悔しいことに素っぴんも良いのである。もしかしたら素っぴんの方が良くない?ぐらいなのだ。

いにしえより、女性は美への追及と共に化粧の文化があり、それによって華やかさを得てきたわけであるが、究極の美は素顔であると言いたい。化粧をすることでより一層美しくなるのも事実だけれど、そのベースを活かせていることが大事なのである。

まぁ何だかんだ言っても、そんな人の事を評価できるほどではありませんが、ふと思った事であります。

2020年1月29日水曜日

どうしたものか

外出先で知り合いに出会うことがあります。
近所や生活エリアであれば、ご近所さんや何かと関わっている人なので普通にご挨拶して失礼します。
ちょっと遠出した先や、旅行先で思いがけず知り合いに出会うと、本当に知っている人か迷う時間があります。話し掛けて人違いだったら。何か大事な要件で来ているのだったら。もしかして極秘のお出掛けだったらなど、勝手に巡らせてしまうのです。
相手も気が付いている風なら話しかけますが、そうでない時は極力スルーすることも多い気がします。

自分の人生の中で多くの人との関り合いがあったとて、繋がりは共有する時間と内容によって変化するものだと心得ています。自分が親しいと思っていても、相手がそれほど思っていないのではないかと小心者の感情が動くのです。

出来るだけオープンな性格でありたいと思うのですが、ほんの一瞬でも気を抜かず人間観察と分析をするこの性格。
臆病者の予防策なのでしょうが、どうしたものかと思うのです。

2020年1月28日火曜日

粋でありたい

一歩外に出れば、自分以外の人との関わりが待ち受けている。
自分がどう見られているか。自分がどう映っているかを気意識し過ぎていたらきりがないが、自然体で特に問題がなければ良いのかもしれない。

まるで透明人間のように見えない存在であれば、カッコ悪さも気にならないのだろうが、流石にそういう事はないので、最低限見た目にもこだわらなければならないだろう。
外見的評価は清潔感が基本として、高望みの装いはもはや皆無である。つまりそれによって何かが変わる事を期待しなくなったと思う。
それよりは内面的に繊細な気遣いが出来るかである。
言葉も仕草も行動も、如何に「粋」であるかなのだ。
無理に取り繕ったところで、不格好な醜態を晒しかねない。
ちょっとした気遣いがさりげなく出来ることが、果たして今の自分に出来ているのだろうかと思う。

かねてから気を付けていることは一つある。
誰かに何かをしたときに、「してあげた」と思わないことである。
つまり貸しを作らないこと。
勿論、借りは作らない。
その関係性に「粋」は感じない。
優位な立場になれば、人は上から目線の横柄さを露呈してしまう。
それは避けたいのである。

誰かを手助けしたとしても、名前も告げず去っていく善人程とはいかないが、懐の深い人になりたいものである。

2020年1月26日日曜日

晒す勇気と志し。与えるものと失うものの僅かな隔たり。

そこにあるのは多分どうでも良いこと。
興味も共感も一瞬で途切れてしまうから。
深く考えないで先に進もう。
感情が揺さぶられる程の衝撃も、明日の記憶にはならない。

誰かのためにと嘯いているよりは、自分が生きる糧にしてますと言い切った方が良い。浮かれていられるのは今だけだと、祭りの後の静けさを予感しながら過ごす者は少なかろう。

数を競えば限りなく。
その頂の誇らしげな笑みが浮かばずに入られない。
小さな積み重ねから始まったチャンネルは、気の遠くなるような散財を夢物語にして見せつけている。

敢えてそこに行き着くことはなく、言葉が何かを包み込むような場所を見つけようとしている。
この世界は傷付け合って尚、無痛の叫びを繰り出している。
見えない血を流し、枯れ果てた涙さえ、一蹴されてしまいかねない。
事実も仮想も混在しながら巨大化する。

穏やかな一言が綴られた場所があるなら、そこで一休みしよう。
繋がる事の幸福感は一欠片なのかもしれない。

2020年1月25日土曜日

ミルクとサンドとナイ。

最近ユーチューブで漫才を見て楽しんでいる。
漫才のネタは3分位なので空き時間に見るにはちょうど良い。
過去のネタでも面白いものは面白い。

M1で優勝したミルクボーイは同じ流れのネタだが、そのベースがしっかりしていて飽きない。最後のオチでどう締め括るかがきめてである。
サンドウィッチマンはコントもするが、やはり漫才が上手い。
絶妙なボケを重ねてテンポが良い。
ナイツはとぼけた感じで進んでいくが、大オチに繋げる流れが絶妙なのである。

漫才を始めお笑い全般が好きだが、やはり漫才が最強である。
そう勝手に思っている。
そして売れても漫才ネタを作り続けている芸人は面白い。
常にアンテナを張り巡らせて、新しい事に取り組む姿勢と、進化が止まらない芸人は面白い。キャラ先行型の芸人は飽きられたらおしまい。残念ながらそういうものだ。

ネタで勝負する芸人に今後も期待したい。

はじめてみた

SNSにはあれほど興味を示していなかった自分が、
最近少しだけ関心を示しています。
自分が投稿するためではなく、興味がある人物の投稿をみるためです。なので、自分からなにかを発信することはありません。

「フォロー」や「いいね」はやたらと付けません。
見たい記事があれば見ます。
飽きたら見ません。
そんなモチベーションで始めました。

今やSNSで稼いで大金持ちって人もいる時代。
思いがけずそうなった人も、それを目指して頑張ってる人も、ほんの一部とはいえ夢のある話ですが、真似しようとも思わないのです。
ただ、何処かで何かのヒントになればという考えはあります。
自分の知らない世界を垣間見る事は、果てない欲求のひとつですから。

新しいチャンネルが増えたと言うべきなのでしょう。

2020年1月24日金曜日

インフルエンザ

新型ウイルス流行に世界が警戒している。
昔からあるウイルスに対しても予防と治療法があるとはいえ、根絶出来ないままの現代。新しいというか、従来あるウイルスが変異するのは致し方ない進化なのだろうか?

自分の場合は子供の頃にかかったような気もするが、長い間インフルエンザにかかった記憶がない。周りで発症したとしても、自分が体調を崩す事が今のところない。頑丈なのではなく、気合いで押さえ込んでいると自分は思っている。咳や発熱を誤魔化して生活しているのではない。症状が出ないのだから間違いないだろう。

そう言えば近年薄着で生活している。
気温が下がっても、Tシャツにダウンとかの2枚重ねで外に出るのだ。寒いと普通に感じているが、多くの重ね着は考えられない。
寒さに弱いと自負している割に薄着で生活している事が、意外に健康的に良い影響を与えているのかも知れない。

ただ、ウイルスが蔓延している環境には警戒しなければならない。
いくら自分が強くても菌を貰うのは気が引ける。タダでも要らない。
目に見えないから避けられないけど、気を付けたいと思う。

今日も元気だ。
平和な1日でありますように。

2020年1月21日火曜日

Game Over

「もう終わりにしよう」

そう告げて区切りをつける。
今までの出来事は架空の出来事。
記憶装置に操られただけの意味のない世界。
結末さえ定められた物語を辿っているだけ。
笑顔も泣き顔もあの感動さえも偶然ではない。
全てが造られた幻想なのだ。

あの頃の出会いと別れが混沌と交錯する。
思い返せば、まるでゲームのように限られた世界観でしかない。
リセットが効かない生きざまが、バットエンディングを避けるように、幕を下ろすための呪文を唱える。

コンティニューもない。

メモリーが容量限界でフリーズするかのような状態が、度々主人公になった自分を傷付けて苦しみを与える。

最強のアイテムを手に入れたところで、ラストにまで向かうことはない。

新しい旅が予想の域を越えてくる。
それが生きるということ。
それが生き抜くということ。

2020年1月19日日曜日

読んでみたい

ネット記事でビートたけしのコラムが抜粋してあった。
食事に行った店で偉そうに出来ないという話だった。
大物芸能人が故に「おもてなし」や「特別サービス」を受けることもあるが、恐縮するというか、その味に納得できなくても文句も言わず、「美味かったよ」って言ってお金を払って帰るのだそう。

その根元は師匠の教えがあるという。
「芸人って言うのは粋でなくちゃならない」
いつでも見られているということを意識して、周りの人を楽しませられるのが本当の芸人だというのだ。
色々師匠の教えについても書かれていたが、確かに粋であった。
その教えが今もいきづいているのだという。
毒舌漫才でスターダムにのしあがり、今も第一線で活躍し続ける芸人の意外な一面である。

それらをまとめた本があるのだが、電子書籍化しておらず読むのを断念した。
他にも多くの出版物を出しているし、きっと読めば目の鱗が取れる衝撃がありそうだが、ここは堪えておこう。
本を買う余裕もそれを保管する場所もない。

ネットでこぼれた話を拾い集めようと思う。


2020年1月18日土曜日

気になることのつづき

女子アナがタレント化しているというのはもはや当たり前の時代だが、報道も出来てバラエティーもこなす女子アナの対応力は目を見張るものがある。

局によってはバラエティー専門のアナウンサーも見られるが、それは局が財力があるから専属で振り分けるのだろう。勝手な推測ではあるが、そう思う。

このところバラエティーで進行役のアナウンサーが気になってしらべたら、フリーアナウンサーであることが多い事に気が付いた。
有名なフリーアナウンサー事務所のセントフォース所属であることが多い。何かすごいなぁと思う。

そんな感じです。

気になること

TVを見るときの条件。
番組内容。出演者。アシスタントをつとめる女子アナ。
どれかがヒットすると何となく見ている気がする。

かつてはフジテレビが女子アナの宝庫だった。
美人でバラエティーでの対応力も高かった。
続いて日テレと言ったところ。
勝手にランキングするならこの順番。

今は自分的にはテレ東。テレ朝とTBS(同率2位)と言った感じ。
かつての二強は3位以下となっている。
決して2強だった局が下がったとは言わない。
今の自分のランキングの上位は可愛いのである。
ツンとした美人というより、周りを照らすような笑顔が素敵なアナウンサーが多い(もしくは一人はいる)局が上位になっている。

新人アナも人気が出て、早い段階でフリー転身が当たり前になっているだけに世代交代も激しいが、今はホンワカ癒し系が主流になっている。各局の面接官の感性に感謝しよう。(どういう心境だ?)

つづく。


2020年1月17日金曜日

ゆるい話

政治評論家のような話をしてしまったので、軽い話題を挟みたいと思う。

人にもよるけど、どうして赤ちゃんや小動物と接するとき、良い大人(良い大人繋がりではない)が赤ちゃん言葉になるのだろう。
優しく問いかけるまでは理解できるが、途端に「~でちゅね~」と恥ずかしげもなく言うのである。
言われた側が言葉を発しないのを良いことに馬鹿にしている訳ではないが、時折そういう風に聞こえてしまうのは、どちらかといえば聞いている自分に問題アリなのだろうかと思いつつ、どうしても馴染めないのである。
もちろん自分はそういう言葉を使わない。赤ちゃんだろうが、小動物だろうがいつもと変わらない言葉で接するようにしている。
ある意味一個体としての人格や性質に敬意を払っているつもりだが、周りからみれば愛想のない奴だろう。

でもどちらも可愛いのである。
悔しいがその存在だけで許されるのである。
何もできなくても、何か失敗しても許容の範囲を越えないのである。
その事実に嫉妬しているのだろうか。
いや、他と混じって許しているに過ぎない。
ただ、自分はそこに戻れないことを目の前の「可愛い」存在を通じて知らしめられる現実に反発しているのだろう。

あとは自分のキャラではないと思い込んでいるのだ。
自分のキャラって人からどう見られているかは不明だが・・・。



良い大人

立派な大人になりなさい。
誰しもがそう言われて大人になった。
自立できる大人。
人のためになる大人。
社会貢献する大人。
なにを持って良い大人と定義できるかは別として、良い大人にそれぞれなろうとするのである。

世の中には「先生」と称される職業が多く存在する。
少なからずとも良い大人の代表格であろう。
そういう肩書きを与えられ胸を張って生きている人も、その立ち位置に辿り着くために画策するのであろう。いずれ暴かれ白日の元に晒されるとは気づかずにである。
問題は姑息な手段に魂を売ることもそうだが、その問題発覚後の対応である。

とある国会議員の公職選挙法違反が報道された。
該当議員はその日から国会審議欠席、大臣だった夫も辞任し共に体調不良を理由に雲隠れしたというのだ。
脈々と受け継がれた疑惑からの逃亡手段。
病気になったと言えば逃げおおせるのか?

久々に公の場で会見すれば、「適応障害」の治療中であると言うし、国会議員は辞めないと言う。
疑惑について捜査中という理由で発言できないとか。
全く持ってご都合主義の弁明に呆れてしまう。

先生って呼ばれ続けたいのではない。
その甘い汁を吸い続けたいだけの吸血鬼なのである。
暗闇の棺桶でその疑惑を晴らそうとする日光から身を潜め、十字架の呪縛から遠ざかり、正義の杭から逃れ続けているのだ。

まぁ、汚職議員等珍しくはないが、国民のために身を削り働いて、崇められる程の大物議員ぐらいにして欲しいものである。
あってはならないことだが、小物が姑息に税金を搾取するのは如何せん納得いかない。

昨日の報道を見て思ったことでした。

2020年1月12日日曜日

わがままな君

サヨナラまであと少し。
出逢った時からそんな時間が過ぎていく。
手を振って笑顔でお別れするためにここにいる。
虚しいと嘆くまでもない。それが約束なのだから。

待ち合わせも偶然に任せて、過ごすひとときも必然ではない。
どこに向かうのかなんて宛もない。進めばその先に別れがある。
少し前を歩く君が振り返る時に告げるサヨナラに、どこかで物語のエンディングを待ち望んでいた自分が見える。

それは遥か遠くの記憶。
そして忘れ難き心の欠片。
もう二度とないであろうあの頃の無垢な煌めきに、いつしか憧れる自分を感じていた。

2020年1月11日土曜日

読み解く不可解な想定の事象

近年実に通常の感覚では計り知れない犯罪が起こっている。
年末から新年に架けてその裁判による審議が始まり報道されている。
忘れかけている事件の内容を掘り返し、その残虐性や不条理な動機など露になるのだが、必ずと言って良いほど弁護士による「心神耗弱状態による責任能力の衰退により無罪主張」を提示し、精神鑑定を要求することだ。これはもはや凶悪犯罪が起こりうるメカニズムを根底から否定し、法の元に平等と謳う国家の原則を乱用しているにすぎない。先進国ならではの裁判システムのバグのようにしか思えない。
裁判にて有罪確定するまでは「推定無罪」というのが原則らしいが、多くの目撃者の前で罪を犯し、現行犯逮捕され、自白までしても、「推定無罪」なのである。おかしな話だ。

法廷で謝罪の言葉もなく、自身の主張を繰り返し、自ら極刑を望もうとも、過去の判例を引き合いに減刑されるケースがあることを逆手に、どこまでも態度を変えない罪人の言動を、新年から報道で見聞きしている。
被害者感情を無視している訳ではないと思いたいが、裁く側に法が平等という原則論が欠如し、重罪に厳罰のバランスが傾いて見える。映画で描かれるヒーローでさえ、正義のために多くの犠牲や破壊を尽くし、法で裁かれることが出来ない悪に立ち向かうのである。そういう映画が多く作られる背景には、法制度の脆弱さが常に問われているに違いない。

現行の立法制度を批判し続けても仕方ないのだが、それらを行使しなければ生きづらい国家になっている現状を改革しなければ、安全国家といわれた国も神話に終わるだろう。

確かトムクルーズ主演で、犯罪予備軍を予測し身柄を確保すると言ったストーリーの映画があった。AIを駆使し犯罪抑制をするが、その機関のエージェントである主人公がターゲットになり逃亡。隠された陰謀に立ち向かうと言ったストーリーだったと思う。
人の趣味嗜好を分析し、傾向・対策を講じれば予備軍確保ができる日が来るのかも知れない。無実であれ、罪を犯す前に予防できるのが賢明であるかのようにも思える。
ただし無実の一般人を拘束する世の中は異常でしかないとも言える。

犯罪の無い世界を願う。
国同士の争いでさえ収まらない現代だが、願うしかないのである。

2020年1月8日水曜日

書き初めしましたか?

日本の風習のひとつに「書き初め」があります。
新年を迎え年の初めの目標や願い事を習字で書くというもの。
今時は学校の宿題や神社などの行事でしか行わないと言った印象ですが、心機一転目標をたてるには良い風習でありましょう。

書き初めこそしていませんが、今年の目標を考えました。
「これまでお世話になった人に手紙を書いてみよう」
であります。
1年を通じてゆっくりできる範囲でやってみようと思っています。
メールではなく、手書きの手紙を書いてみたいと思います。
何人にという制約も、いつまでにという締め切りも決めず、今年の小さな目標にしました。

誰に書くかも具体的には決めていませんが、返事が戴けることを期待する訳でもありません。自分が感謝の意を伝えたいと思った事柄を近況を添えて書けたら良いなというぐらいのものです。

一年計画の自分なりの書き初めになりそうです。

2020年1月7日火曜日

守り神
















運気アップします。

夢に向かって進め

今日は少し特別な日。
誰しもが一度は経験する試験の当日である。
もちろん自分のではない。
それは遥か昔に経験したのだが、巡り巡って次の世代になった。
ここまで来たかという思いと、これからが本番という思いが複雑に絡み合うと言った心境である。
100%確実視の試験だが、望むべくは優位な順位を勝ち取ること。
準備が万全と言えるのかは疑問だが、どことなく余裕を持って挑んでいる。

結果発表まで緊張は続くが、今日を無事に乗りきれれば春はやって来る。そう信じたいものだ。

自分ならこうしておくだろうと言えるのは、経験値が高いからである。それは積み重ねた失敗の数と無駄にした時間の蓄積から編み出した攻略術に他ならない。
それらを要約して伝授しておいた。
キラーフレーズを駆使し、成功の報酬を得られることを待ち望むだけである。
そして今の自分に出来ることは祈ることだけ。
無力なようだが、信じる事が最大限の応援だと思う。

時にこういう場面が人生には付き物だ。
平常心でいられるのはそれだけ生きてきた証なのかも知れない。

2020年1月6日月曜日

揺れる地表の突出した思惑

通常営業開始のワイドショー。
年末年始の出来事をまとめて詰め込んでくる。充分に編集する余裕があったのだろう、ギュウギュウに渋滞している感じが否めない。
順番は事件や国際問題などの固い報道から流し、芸能関係にシフトしていく。数字が見込める芸能ゴシップは中盤の要と言ったところなのだろう。

少なくとも今注目すべきは国際情勢である。
一国の長が「喧嘩」をけしかけているのだ。
それは多くの犠牲を産み出すだけの無益な愚行なのだが、一方でその求心力に一票という難解な図式が出来上がっている。
本質は何なのか知らされず、命令という高圧的な指示のみで色褪せた未来を描くために戦いの場へ向かう者達。終末を告げるボタンに手をかければ、一溜りもなく世界は終わる。歓喜は狂喜へと移り変わり、首謀者への糾弾はどよめきとなりて、正義とは何かを改めて指し示すのだろうか。
手軽な発信源で軽率な言葉を綴れば、否応なく人の精神を揺さぶり、その仰せを逆撫でする。足元が危うくなった立ち位置を強固にすべく取った手段は、関係のない多くの命を恐怖に晒すのだ。
ただそれを静観するしかなく、知らされたところでどうしようもないと諦めるのは早い。願うことは事態が最悪のシナリオに書き換えられない事である。
歴史上この先あってはならない悲劇を見届けずに済むように。
頂点にいると勘違いする者達の心はどこに向かうのか。
超人的な力を持つヒーローなどいない。アベンジャーズもウルトラマンもいない。
正義は真の強さを持った者だけが使えるアイテムなのであろう。
弱さを包み隠すために兵器を抱え、それをちらつかせている内は難しいようである。

・・・地球の片隅で思う。

2020年1月5日日曜日

宇多田ヒカルについて語る

新年のTVに宇多田ヒカルが出ていた。
トーク番組なので歌わなかったが、それもまた良しである。
と言うのも、彼女の感性に魅力を感じるからであろう。
15歳で歌手デビューしてその類いまれなる歌唱力と創造力でスターダムにのしあがったと言うことは言うまでもない。

楽曲や歌手としての評価などをここで書く必要はない。
今回書きたいのはその個性的な感性である。

一時期ネット掲示板をよく見ていた。
今でも公式サイトもあるだろうが、最近は正直見ていない。
よく見ていた頃の楽しみは、本人の日常を綴った言葉の選択が優れている事だった。
変わり行く環境と立ち位置にどこか翻弄されていながら、自分は自分らしく在りたいというメッセージにも取れた。
楽曲がより壮大なテーマに舵を切って行く頃、言葉はやや立ち止まりを見せていた。その頃から公式サイトを始め、彼女の情報に触れる事はなくなった。
勝手な想像だが、周りの力に押されて作品を生み出す時代だったかのように思える。

「花束を君に」は衝撃的だった。
聴きたかった歌がまた舞い降りたのだ。
その後の楽曲も心に染みる気がする。

トーク番組などで見る宇多田ヒカルはいつも独特だ。
世界観というか自分のリズムを身の回りに纏わせている。
壁はないのに踏み込めない独自性があり、それもひとつの魅力になっているのだ。
「落とし物」に自分を重ねて見るという。
なるほどと思うが真似はしないだろう。
真似ることで近付けるとしても、それはそれで違うのだ。

久しぶりに公式サイトでも見てみようかな。
新たな発見がありそうだ。

福来たる福分ける福あげる

新年にまつわる話ばかりですが、時期的に外せない話題でもあるっていう処でございまして、今しばらくの間お付き合いくださいませ。

除夜の鐘をお寺に突きに行ったと思えば、新年早々にお宮や神社にお参りに行くのでございます。人によっては2つ3つとはしごするものだから、神仏も忙しいのでありましょう。

福を呼び込む為の行事に奔走する民の福がこぼれ落ちていたら、回収したいと思う日々です。
回収するって言っても縁起の良い運が目に見える訳でもなく、ただそんな風に思っただけです。


2020年1月4日土曜日

FとかTとかIとかあるよね

SNSが当たり前の時代。
もはやそれが情報を得るだけでなく発信の場になっていることも、人気のバロメーターであることも、収入源になることも理解している。
しかし、どうも馴染めないまま今日に至っている。
気軽にアドレス交換しておきながら連絡が来ないだの、パンク寸前ぐらいまでメールが来ただの、薄っぺらい関係性における繋がりの脅迫性が傍目に面倒なのだ。
個人情報をさらけ出しておきながら、叩かれて落ち込む。
まぁそんな連鎖に巻き込まれたくないので、ひっそりとブログやってるんですけどね。

日本のお正月の風物詩に、有名社長のお年玉ばらまき企画が参入し2年目。今年は1000人に100万円当たるという。
社会実験として行うのだそう。
個人的には多いに結構な振る舞いだと思う。
なんせ元手の要らない宝くじである。
当たらなくても困らない。当たればラッキーである。
これを世の富裕層が真似すれば、日本はもうちょっと景気が良くなるかも知れないが、その為には国民がもう少し成熟しなければなるまい。

SNSを基本しないがこれには応募してみた。
お金目当てではなく、社会実験に参加するためである。
そういうことにしておこう。

明るく照らせ

クリスマスシーズンにお目見えする街の灯り。
街路樹に飾られたイルミネーション。
この辺りにもかつては日本最大級と称された大通りがある。
こういうものは毎年競争となり、規模の拡大に追い付けなくなり順位を下げてしまうのだが、そういう平和な争いであっても無理に競り合う必要もないというのがごもっともな見解である。

以前のように薄暗がりの日没から深夜0時頃まで煌々と照らされていた時代は終わり、今は短くなったと聞く。節電や経費削減の意味合いもあるようだが、人通りも激減しているのが要因のひとつらしい。
日中でも閑散としている商店街が両脇にある駅前は、夜に人を集める要素を持たない。少し離れた飲み屋街は、酔っぱらいがふらつきながら闊歩している姿ばかり。いつでも見れる看板の灯りを頼りに歩いている。

年明けの夜に偶然駅前を車で通過した。
やけにきらびやかな灯りが視界の隅に飛び込んでくる。
そのまま通り過ぎて、2つ先の交差点から戻ってみた。
駅前はまだイルミネーションを光らせている。
クリスマスシーズンだけで終わっていた時代から、Newyearを演出する時代へ変化したのだろう。

眩い光の元に集まる人はほぼいない。
行き交う車の列も少なく、幻想的な灯りだけが目立って見えた。
一人でもこの光の森で幸せな気持ちになれれば良いかなと思った。

2020年1月3日金曜日

賑わう街に繰り出してみたけれど

新年早々冷蔵庫のストックは少なく、せめて今夜のおかずぐらい調達せねばと買い出しに出掛けた。
今日は県内有数の天神様があるところ。いわゆる学業の神が奉られているお宮の麓の町である。
普段はさほど人で賑わっている印象もないが、今日はさすがに人で溢れかえっている。参拝帰りの家族連れだろうか。年末年始を故郷で過ごした人達だろうか。ほんの少しお洒落な装いの人たちが行き交っている。福袋などのセールは昨日までに終わっているのだろう。大きな荷物は普通の紙袋が殆どだ。徐々に財布の紐も通常に戻りつつあるのを、流れ行く人たちを見ながら感じる。

食材以外に買い物の目的がない中で、この人出はきつい。
個人的にはそうとしか思えない新年の休日。

2020年1月2日木曜日

さぁ頑張ろうっと

今から仕事です。

今日も忙しくなるかな?

仕事が終わったら何しよう。

そんなことを思い描きながら働いてきます。

どこかにある

幸せの基準は人それぞれ。
幸せの国と言われる「ブータン王国」は国民の殆どが幸福だと感じているという。その国のことはよく知らないが、先進国ではない小国であるに関わらず幸せであると言いきれるのは、人として崇高な感情共有が出来ている証だろう。

新しい年を迎えるにあたり目標をたてたいところだが、果たしてその目標が自分を幸福に導くものか考えると難しい。
スタートラインを引けばおのずとゴールを目指さなければならない。
低く見積もって達成できたとしても、得られる満足感も乏しいものだ。

それよりもどこかにある幸せをひとつずつ拾っていこう。
そう思う年明けの朝だった。

子供と動物とお色気

お正月のテレビが様変わりしている。
時代の流れとしか言えないが、実につまらないものばかりである。

定番となった年末恒例番組は健在だが、年が明けてのゴールデンは収録済みの特番ばかり。中には寄せ集めのVTRを編集しているだけの番組で、見たことがある映像を新年早々見せつけられる拷問状態である。
働き方改革なのか。少ない予算でのやりくりなのか。コンプライアンスに傾倒した結果なのか。ネットに色々奪われた結果なのか。
どれも含めて番組作りが行われるのであろうが、寂しいばかりである。

TV業界のヒット番組三種の神器と言えば、「子供と動物とお色気」と言われていた。お笑いや歌番組、ドラマやドキュメンタリーなどヒット番組は多いが、その反面不発も多い。間違いなく数字が取れるのは「子供と動物とお色気」なのである。
「可愛い」と「エロい」は無敵なのだ。
但し昨今「エロい」は地上波から撤退を余儀なくされている。
一年中、昼夜を問わず何処かで見ることが出来た「エロい」は、深夜枠へと追いやられ消えていったのである。

その分、「・・・っぽい」が微かに重宝されている。
「キャッチフレーズ」でそれとなくエロさを印象付け、発言やしぐさで彷彿とさせるポジションである。
代表格と言えば壇蜜さん。後追いで橋本マナミさん。そんなところだろうか。しかし両者とも昨年結婚を発表し、一定の役割を終えた感がある。壇蜜さんは自己発信的キャラのような一面があるので、今後も一定の妖艶さと意味深発言で活躍を期待できるが、橋本マナミさんに至っては、事務所主導のキャラ設定を公言しているだけに、そういうキャラは崩壊していくだろう。

新たな「・・・っぽい」キャラが誕生するのだろうか?
狭まっていく地上波の枠組みに食い込める程の逸材はそうはいない。

「子供と動物」でお茶を濁すお正月特番よりネットに頼った方が得策であるのかも知れないが、家族団らんの憩いの場には魔法の箱だったTVはやはり欠かせないのである。
もうちょっと頑張って欲しいものである。

初夢.com

今朝は早くに目が覚めてしまった。
仕事最終日なのに。後一時間はゆっくり出来ただろうに。
眠りについてからひたすら夢を見ていた気がする。
夢を見るということは眠りが浅いということ。
微かな記憶に辿れば、今朝の夢は異質なものだったと思う。
その夢から逃れる唯一の手段は目覚めること。そう判断したのであろうか。

新年最初に見る夢を「初夢」という。
夢の中に「一富士、ニ鷹、三なすび」と言って、縁起が良いとされるこれらが出てくると、一年が幸せに過ごせると言い伝えられているが、まぁ出たためしがない。

映画で「トータルリコール」という作品がある。
アーノルド・シュワルツェネッガー主演のSF作品で、好きな夢を見る店のような場所が出てくるシーンがある。映画の中では、夢ではなく、そこで現実と過去の記憶がリンクしていき、自分の本来の役割を知る事となる所からストーリーが展開していくような話だった気がする。
そう考えれば、初夢ぐらい自分好みの夢を見たいものだと思う。
悪夢などは勘弁願いたいのだ。

但し夢を好きなように操作できてしまえば、ひたすら眠りについてしまいそうだ。常に自分に有利な非現実は、愚かな自分を許し続けるであろう。
そう考えると、今年の初夢は戒めなのか?
新年早々、自分に厳しいなどと思うばかりである。

2020年1月1日水曜日

New year

明けましておめでとうございます。
2020年スタートしました。
昨日と何ら変わらない朝を迎えた訳ですが、何かに繋がれば新年を祝う言葉が飛び交って、新しい年になったのだと感じます。
さて、新年には「今年の抱負」などしたためて、自分を奮い立たせるような風習もありますが、特になく緩くいきたいと思います。

取り敢えずは健康で幸せな一年であればと願います。
今年もよろしくお願いいたします。