2019年3月29日金曜日

神々の悪戯

この国の不思議なところ。
普通に生活している分には全くといって気が付きさえしないのだが、
神様仏様の数たるや、種類の多さも含め尋常じゃないと思う。
すみ分けが出来ていて混同されたりしないのが不思議だとさえ思う。

お正月等の節目には神社へ行き、受験前には学問の神を拝み、何か頼み事があればそれに強い神のもとへ行き、先祖が祀ってあるお墓のあるお寺へ行き、最後は観光で寺社めぐりなんてする始末。
誰が眠っているかも分からない所に大挙して訪れると言う行為に出るのである。
眠っている側からしたら騒がしいであろう。

なぜ今回はこんな話を書き始めたかと言うと、
「願い」を叶えるべく行動するときに、
人はどこにそれを託すのかと言う話がしたかったからであります。

つまりこの国では受け付け窓口の宝庫といわんばかりに、
「祈願」し放題なのであります。
確実にそこに行かないと御利益がないと言われると難しいのですが、
心という受け皿が大きい人は空を仰いで神に祈るのです。きっと。

普通に美味しいものを食べたときでも、
ちょっとした出来事であっても、
ちょくちょく神が出てきますね。
「神様に感謝」とか「神対応」とかお手軽感覚で使われています。

しかし極限であればあるほど神への風当たりは強くなり、
「神はいないのか」「神は我を見捨てたのか」
などと口走る。

どの神に文句いってるの?
とさえ思うのである。

信仰心の薄い人ほど幅広く神を崇めている風潮さえ感じます。

私はほぼ信仰心がないので神を崇める行為も慎んでいます。
冒涜する行為はもっての他いたしませんが、
なんでも神頼みにしてしまう現代の風潮には疲弊してしまいます。

誰かが病で苦しんでいるとき祈るとしましょう。
祈りを捧げるということは良いことです。
誰にその祈りを捧げるのでしょう。
先祖様、見仏様、神様、誰でも良いとかあるかも知れませんね。
でも願いが叶わなかったときに怒りの矛先にされるわけですから、大変だと思います。

自分は自分の内にある神(居るものとして)に祈ります。
結果すべてが自分に跳ね返ってくるのですから、責任転嫁はありません。
誰かのために祈るとしても、神を選択する必要がないのですぐに祈れます。
何よりプライスレスなのが良いですね。





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