2019年6月1日土曜日

恋愛理論の無機質と有限性

ここは遊び場。
公園で例えるなら砂場。
形の無い領域に踏み込んで造るのは砂の山。
高く高く積み上げて、帰る間際にリセットする。
もし取り残されても、風や雨がそして人がその造形を変えていく。

愛だの恋だの語るに足らぬが、
決して何かを極めただの悟っただの言える訳ではない。
ただ一人遊びの砂場に小さな山を造りたくなったのかも知れない。
風化し消え行く定めを感じながら。

片想いは自分のものか。
自分の身体の中に秘めたる内は永劫にそうであると言えよう。
ただどこかで外の世界にこぼれ出してしまった瞬間から変化する。
伝えたい。共有したい。受け入れられたい。
行き場を求めて言葉がさまよう。
弾けて砕けるか、受け入れられる喜びの日々を掴み取れるか。
その瞬間までの不安とその先の不安が交差する。

故に思うのは片想いはそのままで良いのではないか。

何度も何度も辛い思いをしたくない弱さが足元に有る限り思う。

両想いという幸福を得たとしても、あくまで片想いであることに変わり無い。
誰かを想う気持ちを維持し続ける事で継続される形ではないかと思う。
誰かが誰かを想う。想い合う。
それが求めあい、許しあい、育み続ける原動力が片想いではないかと思う。

片想いのバランスが崩れて足元が揺らいだら、それで決裂する。
崩壊はたったひとつの亀裂で終焉を迎える。

自分を思う以上に誰かを受け入れる器がなければ、
片想いさえも成立しないのである。

そういった意味では自分は小さな器で頑張っているなぁと思うのである。

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